日記

低クオリティの弁当、本の感想、ときどきDA PUMPについて

無痛分娩の記録3(産後の入院生活)

入院した日の夕方に出産を終え、4泊5日の入院生活が始まった。

前回の産後入院は合宿のようなあんばいでつらい思いをしたのは前述の通り。そのためとにかく休みたい旨を申告したことも前述した。結局、希望は受け入れられて望んだとおりになった。

出産直後は夫と私と産まれた子供とで2時間ほど分娩室に置き去りにされた(そのとき子供がどんな様子だったかはなぜか覚えていない。泣かずに起きていたのだっけ)。その後、個室に案内され、タブレットを渡された。ここに入院生活の流れやら育児指導の動画やらが格納されているから見ておいてほしい、ということだったが、「当院のごあんない」的な資料しか表示されなかった。しかしそこを追及する力はなし。

そして夕食が運ばれてきた。豚肉にデミグラスソースがかかった主菜にごま油を絡めた根菜サラダ、という不思議な献立だったがおいしかった。その後、診察を受けて消灯。長子と離れて寝るのは実に彼女を産んだその日ぶりのことだった。

翌朝、タブレットを見ると各種スケジュール等が表示されるように変わっていた。こういうのをそのたびに忘れずこなす気がせず、食事やら授乳やらといった予定をまとめて自分の携帯のカレンダーに登録し、5分前に通知が飛ぶように設定した。これでひと安心。

その後の入院生活は、3時間おきに新生児室に行って授乳とおむつ替えをおこない赤ちゃんを返すと、診察やマッサージ、食事といった自分の予定をこなしていき、さらに体調の記録を義務づけられる日々で、まあまあ忙しかった。

妊娠後期から足が痛むようになって杖なしで歩くことができなくなり、それが産後まで続いたら困ると思っていたが、出産が終わるとともに完治したらしかった。分娩によって新たにできた傷や筋肉痛のつらさはあるが、前日まで根本的に二足歩行を妨げていた、股関節の痛みはもうない。それがどれだけうれしかったか。院内の移動はなるべくエレベーターを避け、不必要なくらい階段を使った。

入院2日目だったか、アラームが鳴ったのでいつものように新生児室に赤ちゃんを迎えに行き、ミルクやおむつを済ませ、返しに行こうとしたら、肌着が汚れてしまっていることに気がついた。私のおむつの不始末が原因だ。新生児室で着替えさせてほしい旨を話し、衣服を替えると、眠っていた子どもが起きて泣いてしまった。自室に帰ろうとしたら、助産師さんから「寝かしつけてから返してくれますか」と言われた。え、寝かしつけ? 信じられないことに、経産婦であり、またそうでなくても自分の子どものことであるにもかかわらず、私はこの子のお世話についての当事者意識や責任感が欠落していた。とりあえず泣き声をBGMにキャスターつきのベッドをごろごろ押して部屋に戻り、赤子を抱き上げ、なんとなくゆらゆらして過ごしていたら眠ってくれたのでベッドにそっと置いて、新生児室に戻しに行った。面倒くさい、と思ってしまった。しかし退院したらこれをやらないといけないんだ、と暗い気持ちになった。

一方で、おなかも満たされていておむつも濡れていない、それでも泣いている、という状態で困り果てていたら(今思うとそんなことで困るなよと思うが)スタッフの方が声をかけに来てくれて預かってもらったこともあった。ありがたかった。その後赤ちゃんはどんなふうに過ごしたんだろう。

退院前夜。赤ちゃんを3時間おきに新生児室に迎えに行く生活に少し飽きてしまい、21時半から0時半は同室で世話をしたいと頼んでみた。なんだか夜は新生児が覚醒するタイミングらしく、たしかにその3時間はたくさん泣かれてしまった(退院後の新生児期もしばらく同様で、この時間帯は「ハズレ回」と呼ぶことで自らのテンションを下げないようにしていた)。

なお、この日は夕食が「お祝いディナー」ということで、病院最上階のラウンジに集められ、ちょっとしたコース料理を出してもらう日だった。夫のみ招待可能で、夫婦で食事する人もいたし、そうでない人もいた。そうでない人たちはひとつの円卓に集められ、おしゃべりをしていた。ラウンジはすてきな空間だったが、そこにあるすてきな椅子にも出産の傷に配慮された円座クッションが置かれているのがなんだか非日常的でおかしかった。

最終日(入院5日目)。退院のための診察に呼ばれ、待機の列に加わった。ひとり明らかに歩みがおぼつかなく、ヨタヨタ、フラフラしている患者がいた。たぶんこの人は並ぶ列を間違えている。彼女は「おい、お前新入りか?」と私に話しかけられる寸前に助産師さんに声をかけられ、出産翌日に受講する授乳指導の部屋に連れて行かれていった。人はたった5日で見違えるくらい回復する。私の回復状況も問題なく、その日に赤ちゃんと一緒に退院することとなった。事前に預けておいた布にくるまれた赤ちゃんを受け取り、病院の自動ドアを抜けて、12月にしては温かい外気と陽光の中に歩いて出ていった。まぶしい光にもすぐ目が慣れた。夫と、5日間会いたくて仕方なかった上の子供がいた。

最後に料理の写真を貼っておく。食事がおいしい病院、との前評判どおり、三食とおやつが常に最高だった。私は食事を楽しみにしすぎて、タブレットに示される献立表をいっさい見ないよう気を張った。以下、ごはんの一部。なんとなく、担当の方々が楽しんで献立を決め、作ってくださっているのが伝わってきた。

 

 

 

計画無痛分娩の記録2(出産)

出産当日の朝8時に来院せよといわれていた。陣痛も来ず破水もせずその日までの期間をやりすごすことに成功し、朝風呂に浸かり、またおにぎりをたくさん作って冷凍した。そして大量の荷物を抱えて病院に向かった。

 

それまで5階建ての1階部分で検診を受けてきたが、初めて2階部分に足を運んだ。エレベーターの回数表示画面には「四字熟語クイズ」という虫食いクイズが映っていたが、この私(クイズ王)が、答えを知らない問題が出た。緊張していたのかも。

 

さっそく分娩室に案内されてベッドに寝そべり、生理食塩水的なものの点滴を打たれ、胎児の心音やおなかの張りを計測する機械を装着された。特に異常なし。血圧を計測し、下が55くらいだった。平常運転。

 

数十分後、麻酔を入れるためのカテーテルを背中に挿入する処置をおこなう。背中を丸めた姿勢になり、そこに局所麻酔を打ち、感覚がなくなったらカテーテルを入れる。私はまったく痛いとは思わず、むしろ手の点滴の方が気になったくらいだが、助産師さんと院長が長めの雑談をふってくれて、ここはきついポイントであることが推測された。病気とか陣痛とか、自分の中で作り出される痛みもつらいけれど、点滴とか注射みたいな人為的・外傷的な痛みもまた嫌なものだ。

 

まだ何もしていない時点で、すでに子宮口は5cmまで開いているとのことだった。「陣痛促進剤を入れたあとに5cmになったら麻酔を打つ。それまでは我慢」と事前に説明を受けていたが、痛みなく目標地点に到達できていたようだった。当然なにも痛くないため、麻酔を入れることはしない。「お昼ごはんとおやつの間ごろには産まれそう」との見立て。この病院では前月から夫のみ出産の立ち会い時間が無制限となったそうで、お昼をどこかで食べてもらったあとに呼んでもいいかもね、ということだった。

 

少しうたた寝をしてしまった。助産師さんが入室。子宮口は6cm、陣痛はなし。進んでいない、とのこと。そこで自分が、カテーテルを入れたころから陣痛促進剤を点滴されていたことを知った(薬剤の名称に「オキシトシン」の文字が入っていた。あの幸せホルモンの)。確かにそのときは全然痛くなかったが、薬の量を増やして数十分すると、おなかが痛む感じになってきた。麻酔のタイミングは私が任意で決めてよいようだが、お産の進みを考慮して、もう少しがんばってから「だいぶ痛い」くらいで入れてもらうことになった。

 

それから20分。陣痛促進剤の投与が始まってから2時間程度の時点で「だいぶ痛い」という感覚になってきて、陣痛とは関係なく腰もつらくなってきたため、麻酔を入れてもらうよう依頼。ぴゃっ、ぴゃっ、と冷たいものが背中を通っていく感じが気持ち悪かった。右手では定期的に血圧が計測されており、低くなると赤ちゃんに空気が届かなくなるため、そのときは麻酔は取りやめるということだった。また内診があったが子宮口の状態は変わらず、胎児も下がっていないようで、「奥の方で開いているという表現がぴったり」ということだった。

 

「あと3回くらい陣痛の波が来て、そのあと麻酔が効き始める」との助産師さんの予言どおり、痛みは15分くらいで去っていった。その前後に夫も分娩室に来て、互いに特にやることのない時間を過ごす。ベビー用品をネットで探すなどした。

 

12時、昼食が運ばれてきた。麻酔中は絶飲食という決まりがある病院が大半であるなか、ここは軽食なら食べてもよいようだった。とはいえ、副作用で吐いてしまう人も多いらしく、吐くのは嫌だったのであまり食べないようにした。13時前、麻酔の効果が切れてきたようで痛みが増したため追加を依頼。十数分がまんしてまた無痛状態に。

 

眠ったり起きたりして14時、助産師さんからみた状況は変わらず。30分ほどして院長が来室。「破水させます」と言われ、大きなはさみの持ち手部分のようなものが視界に入ってきた。下半分を見ないよう目をそらした。何をされていたのかよくわからないが破水させられた。羊水が出る感覚があった。「ここからすぐ進むかもしれない」と言われた。

 

モニターされていた胎児の心音が「下に降りてきたときの音」に変わってきたらしい。すぐに痛みが増えてきて、15時ごろに麻酔を増やしてもらう。陣痛促進剤の流量は12の倍数で増え続けていて、出せる最大値になっていた。そして、確かに、身体の下の方に何か大きなものがある感覚が出てくる。

 

「いきみたいのでは」と助産師さんに尋ねられ、「はい」と答えると、「じゃあ出産しましょう」と、唐突に準備が始まった。子宮口は8か9cm。「子宮口が全開=10cmにならないといきんではいけない」と進研ゼミで習ったはずだし、陣痛の間隔も3〜5分くらいなのだが、助産師さんのこの高度な判断により、フェーズはぬるっと最終段階に移行した。それまで寝ていたベッドが分娩台の仕様になるのは前回の病院と同じ。いきみやすいように足を支える板なんかが出てくる。部屋にも、数種類のユニフォームを着た医療従事者の方々が集まってくる。

 

麻酔が効いてくるが、痛い。痛みに合わせて、助産師さんに教えてもらったとおりに息を吸って止めて力を入れる。何度もやる。きつい(ちなみに病院の方針により入室からここにいたるまでずっと不織布のマスクを着けている)。助産師さんがすごく落ち着いた医師に「いきんでいるけど進まない。まだかかりそう」と報告している。麻酔が最高に効いている状態であるために進捗が悪くなってしまったようだ。とはいえ痛みの波はくるし、そうしたら全力でいきむしかない。「一度いきむのをやめてみましょう」という提案を受け、試す。痛すぎて地獄。内診をするとやっと子宮口が全開。でも進捗はなさそう。破水したあとのあたりから、もうおなかを切って出してくれとずっと思ってきたが、さすがにここまできたらその選択肢はない。私はやっと「無痛分娩であってもこの出産で産むことができるのは私しかいない」という当たり前のことを自覚した。

 

基本的に医師や助産師の方々は私の足側にいるのだが、横にひとりの助産師さんが現れた。次の痛みがきたら、おなかの上の方をすごい力で押された。「ここを押し返すつもりでいきんでみて」と言われ、そのとおりに力を入れる。さらにきついが、手応えみたいなものを感じる。そして、土曜日の早朝に高田馬場の駅前ロータリーに落ちていてハトがついばんでいるようなもの、を連想する。

 

全力でおなかを押されながら数回いきんだのち、落ち着いた医師が「赤ちゃんも子宮も疲れてきているので吸引して出します」と宣言。やっと終わる、と思った。しかし器具の準備に時間を要している模様で、トイレ詰まりのときに使うものにしか見えない何かが視界の端をちらちら動き、近づいてこない。

 

その間にも容赦なく陣痛はくる。おなかを押される。どこに何の力を入れているかもはやわからないが、全力で押し返す。3回くらいそれをやると、「もう力を抜いて大丈夫」と言われ、バーのようなものを握っていた手を胸の上で組まされた。大きなものがずるずると出てくる感覚。ようやく、吸引できたらしい。いきみ始めてから30分で赤ちゃんが誕生した。赤ちゃんはすぐに元気に泣いた。

 

最初から最後までピンと来なかったお産が無事に終わった。後産の処置をされている間(ここは麻酔がいい感じに効いていてまったく痛くなかった)、結局、吸引はせず出産にいたった旨を告げられた。会隠切開もしなかったそうだ(した場合より医療費がちょっと安くなるはず)。分娩時間は初産同様の6時間、とはいえ苦しんだのは1時間いかないくらいで、出血は初産の3分の1以下。かなり、楽をすることができた。子供は体重が2,900gある、胴体に比べて頭がかなり大きな男の子だった。

 

一度目に自然分娩を体験した立場から考えると、計画無痛分娩は陣痛促進剤と麻酔を使うため、なんだか「実感」のようなものがないまま出産に突入するような感覚があった。これが映画だとしたら自然分娩のほうがおもしろいだろう。でも分娩の数時間〜数十時間のあともずっと人生は続くので。子供までついてくるので。

 

無痛にしてよかったと思う。前回おぼえた「自分の身体が激しく損傷してしまった」という怖さ(それは1年間くらい続いた)がまったくないから。もちろん、出産当日にヒールを履いて大衆の前に出てきたキャサリン妃のような芸当はできないし、その日の夜は病室のブラインドをおろす気力もなく、明るい部屋で就寝せざるをえなかった。しかし飲む痛み止めの量も、歩き方も、気持ちも、二度目ということを差し引いても、前とはまったく違って、うれしい。

 

これが私が体験した無痛分娩の話で、病院やその日の医療スタッフの考え方、妊婦自身の体質や出産歴といったことに大きく依ることだと思うため誰かの参考になるような内容ではないと思うが、自分が記録として残しておきたくて書きました。無事に妊娠と出産を終えられて本当によかった。

計画無痛分娩の記録1(出産前夜まで)

分娩日の決定

37週0日(=出産予定日3週間前かつ「早産」と認定されない最初の日)の検診で「すでに産まれそうだから一週間以内に入院したほうがいい」と判定された。特に説明を受けたわけではないが、診察室のパソコンの画面を盗み見したところ子宮口が4.5cm開いているような感じの記述があった。4.5cmとは、前回の出産時でいうと、陣痛が5分間隔になって分娩台に乗せられていたときと同じ数字だ。

予約が取れる日取りの選択肢は2つあり、近い方(6日後)を薦められたためそうすることとした。もし私の体調がよければ猶予期間を増やすために少し遅らせたかったのだが、とにかく足とおなかの痛みがつらくて、少しでも早く解放されたかった。

「本当に産まれそうなので、陣痛をうながすような行動(歩き回るなど)はしないでください。少しでも何かあればすぐに連絡してください。また、○日と○日は無痛分娩ができません」との補足ももらった。この病院では無痛分娩に対応できる医師が院長しかおらず、不在時に陣痛がくると自然分娩になってしまうのだ。その日に陣痛が来ることだけは避けたい。

 

出産までの6日間


太って怒られることを極度に恐れていたため体重を過度にコントロールしてしまい、その検診の日の体重は妊娠前プラス3kgだった(増えていなさすぎるが、胎児は平均的な成長を続けていたので特に注意は受けず)。もう母子手帳、つまり半公的な書類に体重を記録されることもないし、残り6日間は死ぬほど食べ、好きに過ごすことにした。

とはいえ普段より家にいる時間が増えるタイミングだった上の子供の世話に追われる時間も長く、公園遊びにつきあったり、自転車に乗せて送迎をおこなったりと、日常生活を送らざるをえなかった。骨盤ベルト、股関節サポーター、湿布、カイロといったアイテムを腰付近に装着し、外では杖、家ではキャスター付きの椅子に体重を預け、痛みや負荷の軽減をはかった。座りすぎてお尻が痛くなったりもした。満身創痍だ。

前回の出産にかかった時間は6時間だった。二度目の出産は初回の半分程度が分娩時間の目安となるらしい。ということは、陣痛が始まったら3時間で産まれてしまう。病院には上の子を連れて行くことができない決まりで、ふたりきりでいるときにどう対応するか、家族とシミュレーションをしていたものの、そうなることは避けたかった。そのうち「3」という数字も脳内で2で割られ、90分で産まれてしまうような妄想に取り付かれるようになった。今回の妊娠では陣痛もどきが頻繁に出現していたこともありとても恐ろしかった。それも「遅くとも6日後までには産まれる」と確定したことにより、その日まで皆の予定がつけられ、私のぼんやりとした不安は解消された。計画分娩にしてよかった。

家から出るのもままならないため、入院の準備を進めた。出産はまだまだ先だと思っていたころに生協で注文してしまった肉や野菜を半分調理したり、子供用のおにぎりを大量に作ったりして冷凍庫に詰めた。出産前日には、当日の夜のカレーも作った(こういうことをやるのが好き)。自分はパンとかケーキみたいなマリーアントワネットのような食事を好き勝手にとった。

ヨギボーに寝そべり、BTSのコンサートの映像を見た。

休日は家族で近くに出かけた(出先で妊娠期間中最大レベルの腹痛に襲われ焦ったが、痛みにリズム感がなくずっと痛かったため放置というか我慢していたら遠のいていった)。

気になっていたパン屋でパンを買い占め誰にも渡さずひとりで食べた。

そうして時間が過ぎていった。

つづく。

出産前夜の日記

「出産前夜」と表記できることが計画分娩のすごさだと思う。自然分娩は陣痛の発来を待つしかないから。

先日「1%の風景」というドキュメンタリーを鑑賞した(ちなみに今日はずっと見たかったYet To Comeを見ることができた。テテかっこよすぎんか?)。この数字が表すのは「日本の分娩数における助産院および自宅での出産の割合」とのこと。その選択をしたいくつかの家族の記録映画だった。お産を扱う助産院の方が「私は待つのが好き」と語るのが印象的で、なんでもかんでも自分の思い通りに管理したい私とは正反対だと感じたのだった。

どの産婦さんも「自分で決める」ことを大切にしていた。背景はさまざまであり、上の子を産んだときの病院のお産がしっくりこなかった人や、赤ちゃんを取り上げてくれる人とじっくりお産に向けて進んでいきたい人など、それぞれの希望があるようだった。

ただ「自分のお産について自分で決めること」それ自体は出産の手段を問わず実現できることでもあって、彼女たちが結果として助産院を選んだのと同じように、私は計画無痛分娩を選んで決めたのだろうと思った。

関連記事などを読んでいると、少し前までは助産院での出産を選ぶ人は比較的に高学歴の女性が多かったのだということだった。自分で調べて納得してやってくるのだと。私自身も東京で暮らす大卒の正社員というペルソナであるが、周囲には第一子から無痛分娩を選択する人が全国平均よりかなり多かったように感じる。いずれもそもそものインフラ(分娩を扱う助産院およひ無痛分娩対応の病院)の充実が下敷きにありそうだが、根っこは自己決定権の話なのかしらと思ったりした。

それにしても。「無痛分娩は実は途中までは普通の出産と変わらず痛い」というルポを何本も摂取してきたにも関わらず、なんとなくそれは自分には当てはまらないことだと思いこんでいた。改めて病院からもらった資料を読んだら、思いっきりそう書いてあった。自分の脳みその曲解能力というのか、調子のよさが恥ずかしい。

とにかく夜中に眠れないのが続いてもう眠い。明日はお尻が見えないからもう寝ます。

二人目妊娠の話(後期の体調不良いろいろ)

今回の出産は入院したその日に陣痛促進剤を投与されて出産までやる計画分娩となる予定。その日取りが明日に迫っている。先ほどから、安産に効くとかいうラズベリーリーフティを飲み始めた。付け焼き刃すぎる。

妊娠経過は順調だったものの母体の体調不良には悩まされ続けたこの妊娠。今この瞬間もつらい後期の体調のことを書いておく。誰も楽しくない体調不良の話題。

つわりの時期を過ぎた妊娠中期、つまりいわゆる安定期は唯一、活力のあるタイミングだった。悩みは「頻尿」くらい。子供がインフルエンザに感染して看病したときも私にうつることはなかったし、コロナワクチンを打ってもほとんど副反応が出なかった。もちろん、普段よりは疲れやすくなるなどしたが、それも日常生活に支障をきたさない程度のものだった。

妊娠後期に入ったころ、ちょっと心拍数が上がるような行動をとると、腹痛が出るようになった。「おなかの張り」と呼ばれるものかもしれない(二度の妊娠を通してわたしはあまりこの感覚をつかむことができず)。でもそれもすごく困るような症状ではなかった。YouTubeでマタニティヨガの動画を見つけて毎日運動するなどしていた。

それから一ヶ月。ある日、いつもどおり起きると、右足の付け根(股関節側)に結構な痛みが走るようになっていた。ちょっと腰痛なんかは出ていて湿布を貼ったり骨盤ベルトを巻いたりしていたが、それとは比にならない。「常に痛い」というよりは特定の姿勢や動作をすると立っていられない痛みにおそわれる。あるときは、あまりにも痛すぎて、「転ぶ」という動作を能動的におこなってしまった。

杖を持ち足を引きずって歩く生活が始まり、今も続いている。なんなら、一番楽なので、自転車にも乗っている(昨日まで)。

なお、足が痛み始めた時点で妊娠前から増えていた体重は1キロくらいであり、痛みの原因は「妊娠そのもの」と結論づけられた(医者とか整体院とかで)。妊娠が継続される限りは特に治療の手だてもないと各所でいわれてしまった。「薬やめますか、それとも人間やめますか」というキャッチコピーを思い出す。

ちなみになぜか、発症後10日ほどしたある日、とつぜん痛む足が右から左足に変わり、右足は治った。合点がいかない。

先ほど、バスでおばあさんが席を譲ってくれた。おなかが大きくて杖をついているからだろう。ありがたく座った。妊娠してから初めて、公共機関で座席を譲ってもらった。

街の人は、基本的にとっても優しい。どんくさい私は何回も杖や小銭を道に落としていて、そのたびに老若男女誰かが駆け寄って拾ってくれる。でも「席を譲る」行為は無償の優しさではなく既得権益(自分が取った座席)の明け渡しであるからか、ハードルが一段高い行為なのだと思われる。私自身、身軽なときは必ず人に座席を譲ってきたが、それもまあ心身ともに健康だったからできたことなのだろう。優しいおばあさん、本当にありがとうございました。

そして続く体調不良。産休入り直後ごろから今度は「前駆陣痛」という「陣痛の練習」みたいな腹痛が起きるようになってしまった。おなかの中ににんじんを10本ほど詰めて
、そのにんじんがゴロゴロ動いて圧迫してくるような。または、生理痛の一番重いやつのような。あるいは、腹痛で医者にかかったところ「ここが痛いですか」と、痛いところを触診され続けるような。そういうバラエティ豊かな腹痛が頻繁に現れるようになてしまった。本当に痛いときはしゃべれない。右のような顔をして痛みが去るのを待つ。→(>□<)

もはや4年前の出産の痛みなど忘れてしまったが、こんな感じだったような気もする。痛いだけじゃない。怖いのは、これが本当の陣痛で、そのまま出産につながってしまうかもしれないところだ。もはや家や病院から離れた場所に出かけるのも怖く、小学生みたいな行動範囲内で生活をするしかない。これがなかなかメンタルを削ってくる。

そんな「痔」レベルのトラブルがいつも2〜3ある状態も今日で終わり。本当にうれしい。足の痛みがどう転ぶかはよくわからないが、前駆陣痛については、産めば必ず治る。日記を読み返すとほとんど毎日、そういうことが書いてある。

それにしても前回の妊娠との違いが激しくてちょっと戸惑う。前回は本当に元気で、日々電車に乗って好きなところに出かけ、好きなものを食べ、友達に会い、死ぬほどしょうもない資格を2つも取っていた(ITパスポートとFP3級)。この体調不良は加齢によるものなのか、それともまったく別のファクターがあるのか。別に妊娠経過(胎児の体調や、出産に関わる部分の私の体調)に問題がなければ、詳しく調べてもらえることもなく、そのままお産に突入していくんだよなあ。それがフェミニズム的な課題だとかは思わないけれど(どちらかというと何を病気とするか、という医療側の話だと思料。その判断に社会政治的なものが含まれるわけではないように思う、医療って病気じゃないものは治さないもんだと考えるため)。

二人目妊娠の話(「つわり」を振り返る)

今回の妊娠は、前回より重いつわりに苦しんだ。妊婦側の「体質」的なものがつわりの軽重をわけているのだとなんとなく思っていたが、違ったようだった。

今度のつわりは妊娠が判明する少し前から安定期に入った頃まで、3ヶ月ほど続いた。「お約束」だが、「お米が炊けるにおいが気持ち悪い」が自覚できた最初の症状だった。特に利用はしていないが、検査薬がまだ反応しないくらいの時期の話。白米が特に好きではない非国民なので、そもそもこの香りに思い入れがあるわけでもなく、「最近暴飲暴食が過ぎたから胃の調子が悪いのかな」と妊娠を疑うこともなかった。時が経ち妊娠が確定してから、「あ、そういえば、つわりとのファーストミートはあれだったな」と思った。

つわりにはいくつかの種類がある。「気持ち悪くて吐く」が特にメジャーシーンで知られているけれど、「常に食べていないと気持ち悪い」「においを強く感じる」「よだれが止まらないが気持ち悪くて飲み込めない」など、意味不明なバリエーションがたくさんある。

前回は通称「においづわり」がメインで、そのときは「食事がとれずつらい」とも思っていた。しかし当時の日記を読むと、揚げ物を食べたりディズニーランドに出かけたりとやりたい放題で、主観的なつらさと客観的な行動がかみ合っていなかった。

今回はシンプルに「悪酔いした飲み会の帰り道」みたいな状態が続いた。とにかく気持ちが悪くて、なにも食べる気が起きず、「今の私ならどんな食べ物の悪口だって言える」と思った(今回もまた嘔吐に至ることはなかったが、毎日「今日こそ吐く。もう無理だ。」と感じる瞬間があった)。

とはいえ、食べないとおなかが減る。それはそれで気分が悪くなる。そのためいくつかあった「食べられるもの」を食べ続ける毎日だった。

まず「冷製ポタージュ(油脂類抜き)」。これをホットクックで大量に作った。冷えないと食べられないからリードタイムがかなり長いのが課題ではあったが、ここに入れた牛乳が貴重なタンパク源となった。次に「まぜごはんで作った一口大のおにぎり(半解凍)」。肉類が入るのは無理で、ギリギリいけた鯖缶と梅酢と大葉などを混ぜ、ちっちゃいのを大量に作って冷凍し、レンジに30秒くらいだけかけたものをよく食べていた。これも作成開始から胃に収まるまでの時間が長すぎた。

そんなわけで、もっともお世話になったのが、「超熟イングリッシュマフィン」だった。バターやマーガリンの類、そして甘いものが完全に無理になっていた私にとって、同商品のストイックな原材料は好適だった。そして、とにかくどこでも売っているのと、手間がかからないのがありがたかった。パン屋で売っているフランスパンも同じ理由でよく食べていたが、ある日を境に食べられなくなってしまった。香ばしいのがだめだったのか。ちなみに、フランスパンは1本まるまるがんばって食べても600kcalと、私の基礎代謝の半分程度。努力が割に合わない、と思った。

体重はみるみる落ちていき、もとの体重の1割をゆうに越える重さが減って(5パーセント落ちると問題、みたいに言われている)、そのせいで春なのにいつも寒く、頬もこけ、一日いちにちが経つのがびっくりするくらい遅かった。病院からもらったカレンダーに「○月○日ごろからつわりが軽くなります」とあったのに、まったく症状がおさまらず、絶望もした。食の喜びが失われた人生ってこんなにつらいものなのかと思った。

それでも季節が変わる頃には少しずつ食べられるようになった。エビアボカド以外無理だったお寿司も、数日前からセットリストをイメージトレーニングしてから臨めば、「穴子」とか「玉子」、「とろたく」あたりもいけるようになった。人との食事の約束を翌月以降に入れ始め、土用の丑の日に向けて生協でうなぎを注文した。安定期となる16週ごろからは、弱体化した胃腸が肉類およびそれまで食べられていた量を受け付けなかった以外は、ほとんど元通りになった。「後期つわり」という話も聞くが、いまはもう問題なく食事ができる。これがどんなにありがたいことか。喉元を過ぎると、結構なんでもしつこく覚えている私でさえ、忘れてしまうんだけど。

余談だが、元来食べることが大好きで、こんな状況でも食べ物に対する熱意はまったく失われず、料理本や雑誌などのコンテンツは好んで摂取した。あるとき「孤独のグルメ」の再放送で、確か木場あたりにある北インド料理店の回を見ながら「絶対に好き。でもめちゃくちゃキモい」というアンビバレントな感情を抱いた。ラムと各種ハーブやスパイスのカレーなどが画面に大写しになっていた。

また幸い、におい系のトラブルは少なかったこともあり、料理は苦になるどころかむしろとても楽しかった。自分なりの「正解」を探るのも、自分は好まないが家族が好きそうな味付けの食事を作るのも、ささやかな、数少ない楽しみだった。作る量を見誤ることは何度もあったけれど。

 

二人目妊娠の話(どこで出産するか)

二人目の産休に入り、妊娠中の話を書いておこうという気力が湧いてきたので、つれづれと記録していこうと思う。まず出産する場所の話。

 

一人目は自宅から3kmほど離れた場所にある区内の総合病院に、妊婦検診の初診から出産までお世話になった。いくつか理由はあるが、とにかく医療の体制が充実したところで産みたい気持ちが強かった(といいつつ、NICU=新生児向けの集中治療室はなかったけれど)。施設が新しくてきれいだったことも判断の手助けになった。今思えば「コウノドリ」の影響なんかもあったと思うが、総合病院じゃない場所で出産するのは心細く感じた。

 

今回は総合病院ではなく、初産で「怖い」「無理」と思っていた産婦人科の病院を選択した。

 

それには前回のときの後悔があり、病院を変えただけでそれがすべて払拭されるとは思わないが、それでも「出産のなんたるかを一応わかっている者」として、同じ目に遭うことをなるべく避けたい気持ちがあるわけである。

 

一言でいえば、もうスパルタ合宿に行きたくない。

 

詳しいことは過去に書いたが、一回目の総合病院は、運営母体である公共機関の気風を継いでいるからなのか、とにかく質実剛健な雰囲気だった。無痛分娩の選択肢がないのは当然として(それは気にしていなかった)、帝王切開のような医療介入もなるべく避け、とにかく妊婦本人が自力で出産することが推奨されていた。もちろん、赤ちゃんの栄養は母乳で与えるべきだという方針だった。

 

しかし、「両親学級」的なもので配られたテキストに「産後のお母さんは授乳と旦那さんのお世話以外のことはせず休みましょう」と書いてあって「おいおいいつの時代だよ(笑)」と思った以外、特に違和感とか不満はなかった。入院するまでは。

 

出産したその日、病室に家族が見舞いに来て、大量の甘いものをつまんでワイワイやっていたところにやってきた助産師さんがカーテンをシャっと開けて入ってきて「母乳のために明日からはそういうものは食べないでくださいねー!」と言ったところから、入院の性格というのか、輪郭がはっきりしてきた。母体を休めるのではなく、授乳を軌道に乗せることが一番大切であるという、そういう場所に私は来てしまったようだった。

 

翌日、部屋に赤ちゃんを連れて来られて以降、基本的に「赤ちゃんにミルク(人工乳)を飲ませる」という選択肢はなかった。泣いたら、母乳が出なくても授乳する。そしたらそのうち出るようになるから。夜中も同様。連続して眠れて2時間とか。シャワーの時間以外、ずっと赤ちゃんと一緒。それを4〜5日。そういう生活を強いられた。

 

晴れて大学受験を終えて飲食店でアルバイトを始めてみたら、たたき上げの社員からのあたりがきつかった、というご経験がある方はいないでしょうか。勉強ばかりしてきて世間の大事なことをわかっていない奴、本当の根性を知らない奴だと思われている、そんな感覚を覚えた方、いるのではないでしょうか。

 

入院生活をこの飲食バイトだとすると、社員は助産師さんだ。なんだか入院中、そういう数々の記憶がよみがえってきて、「社員」に嫌われたらやりづらいぞ、という頭になってしまった(これは私の性格の問題ですが)。

 

そんな病院の方向性が、産後の育児にも尾を引くこととなった。

 

実は退院して数日後に大きく体調を崩して受診しに行ったのだが、治療のため一泊の入院を勧める医師と、それによって授乳がストップされることを危惧する助産師とのあいだで意見が割れ、結局入院させてもらえず家に帰されたことがあった(うらみつらみが多すぎてすべて書いたら1,000文字くらいになったので割愛しますが)。あれは本当につらかった。仮にまた同じことが起きたら死ぬ気がするのだが、治療してもらえることはないのかもしれないと思った。そうなると、なんだか価値観が転倒してきて、「だとしても授乳は大切なんだな」と考えるようになってきてしまった。「死と隣り合わせの状況で授乳に力を注ぐ」というマインドセットでの育児が始まった。

 

おかげさまで授乳関連での大きなトラブルはなかった。でも子どもがほ乳瓶を受け付けなくなってしまい、私が自由にできる時間は「満腹になった子どもがおなかをすかせるまで」のよくて2時間半程度で、どんなに体調が悪かろうが、眠かろうが、自分以外の誰も対応がかなわないことを、自分でやるしかない期間がしばらく続いた(仕事とかしてると、そんな状況、属人性の高さがおそろしいと思うけど)。

 

今回、全体的にもうこういうのはこりごりだと思った。カギは病院の考え方であり、それは「産後に母親と子供を同じ部屋にするかしないか」に発現するはずだと推測し、「地名 母児別室」で検索して出てきた病院、それが現在出産する予定のクリニックだ。全室がホテルみたいな個室、産後の入院中はiPad支給、こだわりの食事、無痛分娩の取り扱いあり、検診中は4Dエコーあり、アメニティは国内の有名化粧品ブランド(それでいて以前の総合病院より分娩の代金が安いのはなんでだろう)。

 

先日、入院中の過ごし方や育児に関する希望を話す面談があった。初めてじゃないからだろうか、助産師さんを恐れるスタンスは卒業できていた(年下の方と思われたがタメ口だった、でも怖くなかった)。

 

「前回スパルタでつらかったから」「上の子がいるから」という枕詞をつけまくり(よく考えると後者は何の理由にもならないが)、「入院中は自分が休むことを最優先したい」と明記した紙を提出した。他には「赤ちゃんは基本的に新生児室で預かってほしい」「当然夜は寝たいため授乳はスキップしたい」「母乳だけで育てたくない」とも書いて、了承をとりつけた。

 

これだけで、全部解決するとは思っていないけど。人は往々にして後悔をバネに極端に考えや行動を変えてしまい、また後悔を生み出す生き物だとは承知しているけれど。でも今回はこれでいってみようと思っている。どうなるのかな、楽しみです。

※前回同じ病院で同じ日に生んだ同い年のお友達は、同じところで2人目を産んでいるので、まあ相性ってあるよねえということは付記しておきたい。

テニス

ココスに行ったらテニスの王子様フェアをやっていた。この作品とは小学5年生のころ、アニメの放送開始時に出会った。

 

技を技として受け入れられたのは「ブーメランスネイク」までだった。ストーリーから完全に脱落させられたのは切原赤也戦。氷帝立海大のあいだに深い深い溝があった。

 

そんなにわかだが、テニプリを見ていたときの楽しかった気持ちはほんものだし、ミュージカルの代表曲である「あいつこそはテニスの王子様」の歌詞は暗記している。HIRO-Xの曲だっていくつか歌える。

 

ココスではグランドメニューの中からフェア特典が適用される「広島県産牡蠣の和風ペペロンチーノ」みたいなやつを選んで食べた。おいしかった。そして白石蔵之介とかいうまじで知らない人のクリアファイルをもらった。

 

来週からフェアメニューが跡部景吾のものに変わるらしい。誕生日の当日にメニュー解禁なので笑ってしまった。跡部までが私のテニスの王子様だ。テニプリの対戦ゲームではいつも跡部を使っていた。ときメモみたいなやつも持っていたが、もちろんそれでも跡部をいつも狙っていた。

 

跡部に出会ってからもう20年も過ぎた。こんなに長いあいだ生きたコンテンツとしてテニプリが存在し続けてくれたおかげで、ただファミレスに行っただけですごく幸せになった。ありがとう、テニスの王子様

 

ちなみに、最終週が阿久津メニューだったんだけど阿久津ってそんなに人気なのか?最近の若い人の気持ちがわからない。

育休を「育業」と呼びたくない

初めて見たときには正確に意味を理解できなかったのだが、「育業」という言葉がある。「育児休業」の略語…なのかはわからないが、育児をするために仕事から離れる期間、のことを、「育休」ではなく「育業」と呼ぼうとする動きがあるようだ。

 

つねに現実と理想との間にはギャップがあるものだが、まず言葉遣いを変えることでそのギャップを埋めに行こうとする、そういう行為が私はあまり好きではない。

 

例、感染症が爆発的に流行する状況下でもリモートワークができない、現場作業を担う労働者を、「ブルーカラー」じゃなくて「エッセンシャルワーカー」と呼んでみる、とか。いまの技術では明らかに本革のカバンや靴の方がかっこいいわけだが、合皮を「フェイクレザー」じゃなくて「ヴィーガンレザー」と呼ぶとか。形から入るのも大事なのかもしれないけど、不都合な現実を覆い隠す結果となっていないかい、ということは考えたい。エッセンシャルワーカーは感染リスクが高い、その事実は、彼らをどんな風に呼び、いかに尊敬しようが変わらないわけで。

 

「育業」もその一環なんだと私は思った。

 

育児休業は休みじゃねぇ、立派な仕事なんだぞ、という思いから、「休」は退場。「業」というものものしい漢字がバトンタッチさせられたのだろう。

 

でもそれって、「休」より「業」がえらい、と思っているから、出てくる発想だと思う。「休」というか、「働いていない」という状態、のことか。「休」より「業」が上だから、「育休」じゃなくて「育業」にすれば、仕事をしていない人が肩身の狭さから解放されるのではないか、という発想。

 

しかし、問題は、「仕事をしていない人が肩身が狭い」という状況そのものなのではないか、と私は思っている。とにかく(これって実は都市部のものすごく限られた地域の、限られた種類の人のあいだだけの話なんじゃないかと最近少し疑っているけれど)、仕事、他の人間活動よりも不当に地位が高すぎるのではないだろうか。

 

言い換えが意識改革につながるのか。そうではないと思う。「仕事から離れている人がえらくないっぽい状態になる」という真の問題に触れず、ただただ「休」より「業」がえらいという世界観の土俵に、「休」の人が乗っちゃってることにならないだろうか。本来は、働いていない人が働いている人と同等に、ありのままに縮こまらないでいられる状態が正しいんだと思っている。

 

だから、「育休」という言葉を、誰でも普通に言える状態があるべき姿なんだろう。そんなに仕事、大事かなあ。

 

名前がない、おとなの青春

先日、雨が降っているというのに三輪車で移動したいと言う2歳児を連れて外に出た。片手には傘、片手には手押しの三輪車(その上には15kgの子ども)。雨はそれなりに強い。三輪車に日除けはついているが心許ない。子どもが濡れないように傘を傾けて、前のめりの姿勢で、川沿いの遊歩道を歩く。私のおろしたばかりのシャツワンピースの袖(ベビーカーを押している方の腕)は一瞬にしてびしょびしょ。向こうから来た高齢の男性が「雨なのにたいへんだね」と道を譲ってくれて、子どもとともに一礼。

ふいに子どもが「ぼよよん行進曲」を歌い始める。この曲は、お子様のみならずお父様お母様にも大人気の「おかあさんといっしょ」の名曲。自分の足の下にはバネがついているんだよ、つらいときも、大変なときも、ぼよよよ~ん、と空に向かって跳んでみよう!そんな歌詞。それを私も一緒に歌う。ぼよよよ~ん、イェイイェイイェイイェイ……。

そのときに思ったんです。私、いま○○しているな、と。

そして、その○○に相当する言葉、ないな、と。

わかりやすい例を出すと「青春」でしょうか。思い出すのは高校の文化祭、学年有志で上演したミュージカル。正直、どんなものだったのか、あまり覚えていない。というか、自分が大道具だったのか脚本だったのかキャストだったのか、すら、驚くべきことに思い出せない。でも、教師の理不尽なダメ出しによる企画変更やら練習やら、なんだか苦しくて楽しくて、多分本番が終わったあとはみんな泣いてた。私も泣いてたような気がする。そしてもうひとりの私は思っていた、「ああ、私、いま青春しているな」と。

そういう感じ。

考えてみれば、こういうのは子育てに特有の事象ではない。仕事でもありますよね。私はある。すんごいがんばったことがどうにか終わって、ある程度は評価してもらえて、お疲れさま会をして、そしたら「Good Job」と書かれたケーキが出てきたこととか。

このときの○○に相当する概念、「情熱大陸」、だろうか。

先日の育児における○○、私はまっさきに「西松屋のCM」を連想した。

米米CLUBの「君がいるだけで」をバックに、育児中のひとコマが次々に流れる映像。自転車に子どもを乗せて急坂を登ったり、真夜中に泣く赤ん坊を抱っこしてあやしたり、苦しいけど、幸せだとも読み替えることができるシーンの連続。ああ私いま完全にこれだな、と。

青春時代を終えたあとにもじつはたびたび訪れる青春のような瞬間。ここは言葉のブルーオーシャンかもしれない。という雑談。