日記

低クオリティの弁当、本の感想、ときどきDA PUMPについて

「れもん、よむもん!」、「ぼくは勉強ができない」

「れもん、よむもん!」を読んだ。著者のはるな檸檬さんは資生堂ウェブマガジン「花椿」で「ダルちゃん」という漫画を連載中の方。むさぼるように本を読んでいた少女時代から思春期の読書経験について描いたコミックエッセイで、少し私と読書遍歴が似ていたこともあって本当におもしろく読めた。読んできた本を語ることは自分の人生の歩み方をオープンにすることでもあり、特に高校生の頃をつづったページは、私も当時感じていたであろう若さゆえの無力感、閉塞感、焦燥感が文とイラストで美しくリアルに再現されていてどきっとした。

 


それで、そのパートに出てきた「ぼくは勉強ができない」を再読した。初めて読んだのは高校生のときだった(その頃の数段、表紙がダサくなっていてビビった)。

 


「ぼくは勉強ができない」は、同じく山田詠美が書いた「放課後の音譜」とともに完全にとりこにされた小説で、とにかく主人公がかっこきい。エイミー(山田詠美の愛称です)はアメリカ文学を読み始める以前の私の神、すべての判断基準になった。本屋に行けばまず文庫コーナーの「や」の棚を見る。今回「ぼくは~」をまた買いに行ったときに久しぶりに同じことを思ったが、「や」は、いつも想像より最後(ん)に近い。「山田」という超メジャーな名字だからか、「は」の次くらいな感じがするが、ま行を挟むのだよな。

 


10年近い時を経て読み返すと、私があれだけかっこよいと思ってあこがれていた主人公の男子高校生は、ちょっと大人びてはいるものの、年相応に幼い男の子だった。彼は人間を二種類に分けている。教師やクラスメイトは常識や周りの目を気にする「ダサい側」、自分や家族、恋人、少ない友人や部活の顧問は自分の肌感覚を信じて思うように生きようとする「かっこいい側」。私は「かっこいい側」になりたくてしょうがなかった。エイミーに認められるような、誰にも媚びない女の子に心からなりたかった。そういえば、吉祥寺の啓文堂のサイン会に行ったこともあったなぁ。列に並んで何を言おう何を言おうと緊張して、順番が来たときに対面したエイミーは、案外気さくそうなおばちゃんで、しかしそんなこと関係なく、やはりどきどきして何も言えなくてサインだけ書いてもらった。

 


ともかく、今思えば「かっこいい側」「ダサい側」という方法で理解できるほど、世の中とか他人は単純ではなかった。何もわかっていない思考停止のバカに見える人物も、たいがいいろんな思いや事情を抱えて生き方を選んでいるわけで、二分法をそのまま実生活に持ち込もうとした私はすごく愚かで幼かったと思う。そもそも、エイミーに好かれたいとか願っている時点で、他人の視線を気にするダサい人間であった。

 


この小説はひとりを主人公に据えた短編集になっていて、私がいちばん好きな話は終章に近い「賢者の皮むき」だった。というのを、読み始めてから思い出した。このエピソードでは主人公が、バカ側だと思いこんでいた女の子に、「あんたこそ、自然体な自分、という自己認識が、自分自身に媚びていて気持ちが悪い」と看破される。この体験を消化しようとして、主人公は周りの大人たちの手を借りる。「大人になれば他人の視線をうまく受け止められるようになるよ」と年上の恋人に言われて、自分がまだ成長の途上にいることを主人公は実感させられる。一緒に私も実感させられた。「自分自身への媚び」は当時の私にとっては一大事の重いテーマで(今考えると本当にどうでもいいけど)、同じような問題意識を持っている人が、小説の中でもいるのがうれしかった。たしかに主人公なりこの小説の世界観なりは、少し単純ではあるのだけれど、一般的とされる高校生の生活になじめなかった当時の私には、自分は間違っちゃいないんだ、かっこいい方向に歩けば憧れのエイミーみたいな人が待っている、と信じられることは、救いだった。

 


私にとって、物語は、現実世界の流れに上手に乗れなかった時代に、いろいろな形で私を助けてくれるものだったのだと思う。特に「ぼくは勉強ができない」は、自信がないくせにプライドだけ高い、青い自分を肯定してくれた小説だったんだ。ある時期に必死に読んだ小説を再読すると、本の中身以上に、その読んでいた当時の自分の思考に再会できて楽しいものなんだと思った。そういう週末を過ごした。

 

 

れもん、よむもん! (新潮文庫)

れもん、よむもん! (新潮文庫)

 

 

 

 

ぼくは勉強ができない (新潮文庫)

ぼくは勉強ができない (新潮文庫)