日記

低クオリティの弁当、本の感想、ときどきDA PUMPについて

妊娠のいろいろ

出産を目前にした現状について書き残しておこうと思う。

 

しかし、ずっとやろうとしてきたものの、妊娠を主題になにか書くのは難しい。それは慣れとかマンネリの作用によるものが大きいように思う。何ヶ月か妊婦として生活していると、もはや「妊娠」と「自分」を切り離して考えることができなくなってくる。子供との一体感がどうこうという話ではなく、単純に、自分の体の状態としての妊娠に慣れてしまった。例えば、顔の目立つ場所にホクロができて、はじめは気になっていたけれど、いつのまにか鏡を見ても何も思わなくなってしまう。そういうタイプの「慣れ」だ。で、今さらホクロについて書くことないよなぁみたいな。


また一方で、体調や体型、望ましいとされる生活スタイルも妊娠時期により日々刻々と変わる。有名な例では「つわり」があるが、これも妊娠初期を過ぎれば収まる人が大多数で、その後は逆に食欲が亢進して体重が増えすぎないように注意しなければならなくなるし、かと思えば子宮の拡張にともなって胃が圧迫されて量を食べられなくなるケースもある。さらに臨月には誕生に備えた胎児が骨盤の近くまで徐々に降りてくるため、胃腸がフリーになり食欲が出てきて太ってしまうことだってある。とにかく、短い期間での変化が多すぎて、そのときはその自分を生きているものの、過ぎ去ってしまうと、妊娠そのものを総括してなにか「これ」というようなことを言えなくなる(「切迫早産で2ヶ月入院」のような、明らかに重大なできことがあった人は別だと思う。でも私は幸い経過も体調もとてもよかった)。


そういう理由から妊娠についてまとめることができないでいたが、いよいよ出産予定日まで10日あまりとなった今、何も残さないでいるのも惜しく思えてきたので、妊娠中に思ったことなどを、どうしても散漫になってしまうが、書いておくことにした。


・無痛分娩について

周りでは、無痛分娩を選ぶ人の方が多い。私も妊娠をリアルに考えるまではそうしたいと思っていたが、結局、自然分娩(この用語が無痛分娩に対応するわけではないと思うが、麻酔を使わない分娩)で産むことにした。


近所のきれいな総合病院が無痛に対応していないから、というのが最大の理由。そしていざ妊娠すると、「せっかくなら陣痛を体験してみたい」と思うようになった。「麻酔でなくせる痛みなのになんでわざわざ」と思う人がいるのもよくわかる。でも、それって「ケーブルカーがあるのになんでわざわざ足で高尾山に登りたいの」と聞かれるのと私にとっては同じようなもので、まあ、好奇心なんかからわざわざつらいことをやってみたい気持ちって誰にでもあって、私はそれが出産に向いたのだと思う。


あとは、死に対する恐怖がものすごく強くてたまに眠れなくなったりする(「タナトフォビア」で検索してください)ので、一度めちゃくちゃ痛い思いをすればちょっとは死への気持ちが整理されるんじゃないかとも期待している。これは本当に誰もわかってくれないけど私にとってはとても重大なことだ。


・胎動について

「ポーン」「わぁ、蹴った!」みたいなものを想像していた。最初はちょっとそれに近くて、ふんぞり返ったり仰向けになったりしているとたまに下腹部にぽこんという感触があり、「ぎゅるる」みたいな胃腸の音も鳴らないのできっと胎児だろうと思う、というのが胎動とのファーストミート。その後しばらくは、そういうかわいらしい動きを時折感じるので、ポケモンとかペットを連れて行動しているみたいで楽しかった。


妊娠後期からはぜんぜん違った。巨大化した子供が狭い子宮の中で動くので、腹部に腹筋ローラーを詰められて、そこそこの強さでゴリゴリ動かされているような感覚になった。膀胱に当たれば尿意が芽生え、みぞおちに入れば痛くて苦しい。まあ、胎動がわかるようになるまでは、胎児の生死がまったくわからない状態で生活しなければいけないので、その頃の不安感を思えばありがたいことなのだが。でも今の痛みは今の痛みなんだよな。


ちなみに、狭くて暗い場所に10ヶ月も閉じこめられ、しかも自分の体がどんどん大きくなっていくという胎児の境遇を思うと発狂しそうになる。自分にもそういう時期があったのか、というか、もっと言うと目鼻とか手足がなかった時期があったのかと思うとなんとなく気持ち悪くて怖い。


・「妊娠業界」について

就職したあとなら「直属の上司」とか「華金」、結婚後も「旦那」というような言葉遣いができない。そういえば「都の西北」も「紺碧の空」も歌えない。あるコミュニティの一員になってから、そのメンバーぶるのが恥ずかしいのだ。業界人っぽい振る舞いができない。新しい友達にタメ口をきくタイミングも逃しがちだ。


妊婦の一員になってからもそういう感じで、妊娠関係の用語を使うのができなかった。人に説明するときはまず「いわゆる」とつけてしまう。「いわゆるつわりは軽かったんです」、「いわゆる安定期に入りました」みたいな。そういう理由もあって、マタニティマークも結局、使うことがなかった(最大の理由は、日常生活の中でマークの必要性を感じなかったからだけど)。自意識過剰な人にありがちなんじゃないかな。

 

ちなみに、私はあんまり妊娠とか子供についてエモい状態になることもなかった。淡々と過ごしている。


・体調について(妊娠初期のつわり)

妊娠期間を通じて一度も嘔吐することはなかった。もともと体質なのか我慢がうまいのか私は全然吐くことがなくて、大人になってから吐いたのは2回くらいだと思う。だからなのかわからないが、つわりがすごくつらいようなことはなかった。


それでは、つわりがまったくなかったかというとそういうこともなく、一時期は生々しいもの全般が嫌になった。例えば「炙りサーモン」という文字を見ただけで脂を想像して気持ち悪くなったし、ほかほかのごはんなんか食べられないので、カロリーメイトやフルグラ、トーストもしていない食パンみたいなエサっぽいものを好んで摂った。無理だったのは食べ物だけではなく、体温のある生き物との触れ合いもそうで、人と話したくなくなった。


そして嗅覚が鋭くなった。町を歩けば、軒先に干された洗濯物の洗剤や、開店前の飲食店のメニューを感じ取った。「恋をすると世界がカラフルに見える」的なテンションで世界中のにおいが鼻に飛び込んでくるので犬になった気分だった。あるときマスクをつけて明治通り沿いを歩いていて、フライドポテトのにおいがするなと思ったら、4車線の車道を挟んだ向こう側にマクドナルドの店舗があったこともあった。それが不愉快だったかというと、まあそうなんだけど、においと鼻との距離感がおかしくて、「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」みたいな表現がしっくりきた。


生身のものを嫌い、いろいろなものを感じ取ってしまうために常時マスクをつけていたこの時期の私は、中二病患者のようだった。狂ってる?それ誉め言葉ね。


・体調について(痛み)

対外的には妊娠期間のことは「nヶ月」と数えることが多いが、妊娠業界では「n週」と言うことが多い。月では単位が大きすぎることになってしまうほど細かい変化が日々あるからだと思う。最後の月経の初日が妊娠ゼロ週ゼロ日(この「ゼロ」がなんなのか私には理解できない……。0〜3週が1ヶ月、4〜7週が2ヶ月、となる)。40週0日が出産予定日。ちなみに日本では、22週以降に生まれた赤ちゃんは蘇生できる可能性があるとされる。


さて、「臨月」とは36週以降のことを指すのだが、妊娠業界的には37週が大きな節目で、これ以降の出産であれば胎児が外界で問題なく生きることができ、以前に生まれた子は早産児となってしまう(胎児の成長とはそれほど一様であるようだ)。で、それまでは「早産にならないように、おなかが張ったら安静にしましょう」という指導を受け、私も腹痛があればびびって過ごしていたのに、37週を境に「もういつ生まれてもいいからどんどんおなかを張らせていいですよ(おなかが張るのが周期的にあれば陣痛、出産につながるので)」と言われるようになった。


ちょっとそのパラダイムシフトについていけない自分がいる。小さなところでは、妊娠中のある日を境に突然「どんどん生まれるようにしよう」となったこと。大きなところでは、これまで避けるべきとされてきた痛みへのアプローチ。痛みがあるのが望ましい、痛みが出たらそれを放置どころか増長させないといけない状況なんて初めてなったので、かなり戸惑う(痛いのが嫌というわけでもなく、出産自体はすごく楽しみだけど)。


・今できなくてやりたいこと

全力疾走。こないだスズメバチに追い回されて逃げる夢を見たが、そんな不愉快な理由でも、久しぶりに走れて気持ちよかった。


サイクリング。クロスバイクを持っており、日常的に自転車で移動していたので、それができないのがつらい。翼をもがれた鳥のようだ。


エストがある服を着る。もうユニクロのワンピース2種類(2色ずつ)を着回す生活にはうんざりだ。


なにも気にせず薬を飲んで湿布を貼る。


食べられるものにも少しばかり制約がある(お酒、海外産のチーズや生ハムなどはNG)のだが、別にそこでは困らなかった。ノンアルコールビールはアサヒのが一番好きだった。


・みんなそれぞれ事情があるんだろうな

産後いちばん忘れそうなので書いておこうと思う。妊娠してから、「みんなそれぞれいろんな事情があって、そういう中で社会生活を営んでいるんだろうな」と強く思うようになった。私自身は体調も経過もよく特別な配慮はいらない妊婦だったが、そうでない人はたくさんいる(例えば流産率は15%もある、10人に1人以上だ。でもそういう話を聞くことは少ない)。それは妊娠だけじゃなくて、家族のケアが必要だったり、病気を抱えていたり、見えないところでみんないろいろあるのだろう。今の私は優先席では譲られる側で、ありがたく座るし、人から助けてもらうポジションにいるけれど、これからは少しずつ周りを助けられるようになっていきたいなと思う(道徳の授業の感想文か)。でもほんとにそう思う。