日記

低クオリティの弁当、本の感想、ときどきDA PUMPについて

2020/6/8の日記

育休中に緊急事態宣言が出て、もともと少なかった人との接触をさらに減らすことになり、自分がどういう人間だったのかわからなくなってきた。自我の輪郭がぼんやりしているような感覚。私は自分のことを、割と自我がはっきりしていて、他人に流されない部類の人間だと思っていたけれど、というよりは、他者との距離を計ることで自我を規定していたのかもしれない。あの人はああだけど私はこうだな、と、その積み重ねが私の思う私像になっていたようだ。みんな多かれ少なかれそうだと思う。

 

ユアグローの『ボッティチェリ 疫病の時代の寓話』を通販で購入して読んだ。米ニューヨーク在住の作家が4月から5月にかけて書いた短編集。訳者は柴田元幸。しばしば作家とオンライン通話をして執筆を励ましていたそうで、ほとんど編集者も兼ねていると考えてもいいのかも。届いた本は小さくて薄くてホッチキス留めされていた。新型コロナウイルスをめぐるあれこれがモチーフのSF調の、ざらっとした小話がいくつか。ニューヨークの重苦しい空気がなんとなくわかったような気がする。6月になった今は黒人差別をめぐってさらに重苦しくなっているのかな。その点、この本は感染症のみが世間の大問題だった頃に書かれた話であり、それは純粋で貴重なのかもしれない。読んでよかった。取ってつけたような感想だけど、本当に。

 

今月から新聞を取り始めた。購読のお礼という形でもらったカタログギフトがしょぼかった。ビール6缶を注文した。うちは集合住宅なので、新聞を手に取るためには、玄関ではなく階下のエントランスまで降りなければいけない。しかも乳児を連れて。面倒以外の何者でもないが、重い重い腰がだいぶ軽くなった。大した達成のない毎日の中で、新聞を読めば、最低限の何かをできているような気がする(気のせい)。

 

出産間近の友達とちょっとやりとりして、赤ちゃんの育児(のつらさ)について考えことがあったので、近いうちにまとめる。

出産について5(入院生活)

産後は5泊6日の入院生活を送った。なんとなく助産師さんたちの機嫌を伺いながら、出産を経てぼろぼろになった体で、ずっと赤ちゃんと一緒に過ごす生活が始まった。印象的だったことを箇条書きで振り返ってみる。

 

・出産直後、「お母様がたへ」という病院オリジナルのテキストを渡され、今後のスケジュールを説明された。病室に入ると助産師さんがかわるがわるやってきて、さまざまな紙を渡された。ひとつは赤ん坊の授乳や排泄、体温の様子を記録するもの。自分についても同様の紙を渡された。これの記入を何度も忘れてめちゃくちゃだった。特に自分が食事をどれほど食べたか書く欄。毎回完食していたので。

 

・入院中は何度か会議室的な部屋に集められ、何らかの指導を受けた。「授乳指導」、「沐浴指導」、「調乳指導」、「退院指導」など。

 

・調乳指導はミルク会社(明治、森永、雪印といった)の人が来て行われた。粉ミルクの作り方と、なぜか中学の家庭科で教わりそうな食品やら栄養やらの話をされた。どうでもよすぎて寝てしまった。指導を受けていたのは3人だけで、小さなテーブルを囲んでやっていたのに。

 

・退院指導では、自宅に戻ってからの暮らしについて助産師さんから説明を受けた。そして恐らく行政の要請により、中学の保健体育で教わりそうな家族計画の話をされた。「コンドームで避妊できる確率は100%ではありません」「ピルは女性が主体的に避妊できる方法です」みたいな、すでに何度も何度も何度も何度も聞いてきた話をされてわけがわからなかった。しかもこの出産直後というタイミングで。

 

・シャワーは予約制で、30分の間、赤ん坊を新生児室に預けて入ることができた。私は「助産師さんに嫌われてはいけない」脳になっていたので、予約時間ちょうどに新生児室に行ったら、赤ちゃんを大事にしていない人みたいかなと思い、無駄に3分くらい遅らせて行き、シャワーも一瞬で浴びるようにしていた。

 

助産師さんへのポイント稼ぎのため、無駄に授乳室に通った。お母さんたちは、ちょっと高い声、猫撫で声みたいな声で赤ちゃんに話しかけながら授乳をしていた。私は人前でそういうことをするのは無理だった。最初の何日間かは赤ちゃんの名前も決まっていなかった。結局、退院するまで無言で授乳していた。

 

・赤ちゃんが突然、目に指を突っ込んだときだけは「ちょっと、おい」みたいなことを話しかけた。

 

・ホルモンバランスが狂ったからなのか足の裏から汗をかきすぎて、サンダルを素足で履くのが気持ち悪かった。また暑くて病室の温度を23度くらいにしていたら助産師さんに叱られた。

 

・出産中のどこかのタイミングで、ふくらはぎに血栓ができないよう、メディキュットのようなストッキングを履かされた。産後の入院中もそれを毎日履くよう言われたが、筋肉痛や出産でできた傷の痛みがひどく、ストッキングを履く動作ができず、しかもストッキングには謎の血がついていたのが怖かったので、ほとんど履かずに過ごしていた。当然助産師さんには注意された。

 

・出産翌日だけ持ち込んだ化粧品を使って化粧してみたが、その次の日からそんな余裕はなくなった。昼夜を問わない授乳により一日の区切りがなくなり、化粧をするタイミングもよくわからなかった。

 

・食事はそんなにおいしくなかった。入院費用をあとから見たら、一食2,000円も取られていて本当に驚いた。

 

・新生児室には病院のスタッフしか入れない。部屋の外から、赤ちゃんのお父さんと思われる男性が、ずっと窓にはりついて赤ちゃんを見ていた。本当にずっと。気持ちはわかると思った。

 

・退院の近づいたある日、赤ん坊を預けてシャワーを浴び、新生児室に迎えに行った。すやすや眠る我が子を見て「うちの子はかわいいな」と思った。名札を見たら違う子だった。

 

そんなハードな日々を過ごしてやっと退院した。今思えば、助産師さんに怯えすぎだった。

 

ある日「お祝い膳」としていただいたローストビーフ

f:id:naoko1989:20200419095818j:image

子供は先日生後6ヶ月を迎えた。あっという間だった。

 

出産について4(授乳)

11:15
13:00
15:30
16:10
18:00
19:15
20:00
21:30
21:40
22:40
24:00
24:40
1:20
1:25
3:15
3:30
3:55
4:50
7:00
7:15
7:40
10:00
10:15

 

上に書いた数字は、出産翌日、病室に赤ん坊を連れてこられてから24時間のあいだに授乳をおこなった時刻だ。紙に記録したものをそのまま打ち込んだ。一日の切れ目がわからなくなり、0時を24時と書いている。

 

出産当日は、出きらなかった胎盤を押し出すなどのつらい処理を施されたのち(分娩室を出る少し前に、助産師さんがビニール袋に入った血まみれの布を持ってきて、「これは持って帰って洗いますか、それともこちらで捨ててしまいましょうか」と聞かれた。口ぶり的に出産のときに私が身につけていた衣類だったようだが、そんなに出血していたらしいことに驚いた)、赤ん坊はどこかへ連れて行かれ、夜中はひとりで過ごすことができた。つまり、好きなときに寝たり起きたりすることができた。

 

翌朝、同日に出産した人とともに会議室のような部屋に集められ、「授乳指導」という時間が設けられた。まずビデオを見せられた。いろんな母子の授乳している光景が流れていたこと以外なにも覚えていないのだが、ばっちり乳首が映り込んでいるわけで、撮影に同意する人ってどんな人なんだろうと思った。その後、病院オリジナルのテキストを皆で読んだ。なにも覚えていない。ところどころで書き込みをしようとボールペンを持ったが、手に力が入らなくて字を書くことができなかった。指導が終わると、赤ん坊が寝かされたキャスター付きのベッドのようなもの(「コット」という)を渡された。

 

出産した総合病院はとても強く母乳育児を推奨していた。「赤ちゃんが泣いたら授乳してください」「一度の授乳には10分から15分かけましょう」と指導された。テレビも時計もない静かな病室で過ぎる10分はものすごく遅かった。スマートフォンの時計を見て時間を計っていたが、授乳を始めた時間がいつだったかすぐ忘れ、混乱した。夜中、授乳中に寝落ちしてしまった赤ん坊をコットに寝かせ、私も眠る。すぐに泣き声があがり、出産でできた傷が痛む体を起こし、椅子までよろよろ歩いて赤ん坊を抱き上げ、授乳する。眠くて眠くて大きなあくびをしたらあごが少し外れた。

 

赤ん坊はまだ胃が小さいから一度に少ししか飲めない。私も母乳の分泌が追いついていない。そういうわけで、ほとんど休む間もなく授乳を強いられる。でも、病院としては、それを乗り越えれば母乳育児が軌道に乗るのだから、入院中はがんばりなさいということのようだった。ただ、この夜はどうしても赤ん坊が泣きやまず、見かねた助産師さんがミルクを少しだけ作ってもってきてくれた。

 

病棟には「授乳指導室」という部屋があり、たまにそこに呼び出され、理想的な授乳方法(私や赤子の体勢など)ができているかチェックされた。部屋には助産師さんが常駐しており、授乳中にスマートフォンを見たりできるような雰囲気ではなかった。ここで過ごす20分間は恐ろしく長かった。「今のやりかたではちょっとダメですね」というようなことを言われ、赤ん坊の首の持ち方、角度のつけ方なんかを微調整された。しかしそれを再現できず、次に見てもらってもやっぱり「ちょっとまだ惜しいですね」と指導された。ちなみに入室時、部屋に他のお母さんがいたときのあいさつは「お疲れさまです」だった。 

 

今思えば、私は入院中、「授乳」という行為の目的をはき違えていたように思う。赤ちゃんのおなかを満たすためにすることのはずなのに、いつのまにか「助産師さんたちに怒られないようにがんばっている感じを出す」が私の行動原理になっていった。指導を受けるうちに、この入院は部活の合宿で、助産師さんたちは怖い顧問とか先輩のように思えてきたのだ。なんとなく、私は助産師さんたちに嫌われやすいのではないかと思い、呼ばれてもいないのにわざわざ授乳指導室まで行って授乳するなど、今思えば何の意味もない、「がんばっているアピール」をしていた。

出産について3(誕生)

1、2の続きです。

 

分娩室に入ったのは午前9時ごろ。「今日中には産まれますね」と宣告されていた。それから1、2時間でお産は順調に経過し、つまり痛みはどんどん増していき、「いきみたい」という感覚が芽生えてきた。「股からスイカ」とまでは言わないが、今風に表現すれば、海外のおみやげによくある小さなラグビーボールくらいのものが、体の下の方にあって、力を入れればひり出すことができそうだった。というか、陣痛が明らかにいきみを誘発してくる。痛みが来ると、自然と体に力が入り、いきんでしまう。でも、まだいきんではだめなのだ。

 

子宮口は8cmまで開いていた。これが10cmにならないと、胎児の頭が通ることができない。だから、「子宮口開き待ち」という時間が発生することになる。この間はいきみたくてもいきめない。痛くて自然におこなってしまう動作をどうにか止めなければいけない。事前に習っていた「ふー、ふー」とは、このときの苦し紛れの呼吸のことだったようだ。さらによく聞く「旦那さんがテニスボールで妊婦の腰やお尻を押す」も、痛みが来たときにいきみ欲から気を逸らさせるためにあるものだった。助産師さんから方法を聞いた夫は一瞬でコツをつかみ、ものすごく適切に、痛みが来るたびに渾身の力でテニスボールで私を押してくれた。あれがなかったらだめな段階でいきんでいただろう。そうしていたら、どうなっていたのだろうか。昔の人類は「いきみたくても子宮口が全開になるまでいきんではいけない」なんて知らなかったはずで、ではいきんだ者はどうなっていたのか、と少し考えてしまう。

 

私は少しいきんでしまい、そうしたら何らかの液体がどこかから出るような感覚があった。とっさに「漏らしたな」と思ったが違ったようで、でも何なのかわからなかった。あれは破水だったのかもしれないし、血だったのかもしれない。もう本当にわからない。

 

これだけ痛い痛い書いてきたが、実際には、私は「痛い」と言わないようにしていた。あまり騒ぎたくないと思っていたからだ。それでも本当に痛くて、2回ほど、痛い!と叫んでしまった。助産師さんには「今が一番つらいときだから」と言われた。なぜだろう、「またまた、そんなこと言っちゃって」と思った。

 

11時過ぎ、ついに子宮口が10cmになった。「お産の準備を始めます」と言われ、分娩台の角度が変わり、いろいろな器具が載った銀色のトレーが枕元に置かれた。朝会ったのとは違う女医さんが現れた。「ちょっと痛いですよ」と、太い点滴をぶすっと打たれた。全然、何も、痛くなかった。

 

痛みが来たときに思い切りいきんで良くなった。いきむことに集中すれば、あれだけ耐え難かった痛みもさほど痛くなかった。何より出産に終わりが見えてきたのがうれしかった。しかし、いきめばすぐ産まれるものだと思っていたが、甘かった。結構、本気でいきまないと、赤ちゃんは出てこないようだった。痛みが来るまで息を吸い、来たら息を止めて、可能な限りいきみ続ける。そう教わったものの、「可能な限りいきみ続ける」が、陣痛で体力を奪われた私にはきつかった。

 

分娩台には車のサイドブレーキのようなバーが両手の脇に設置されており、それを握ると上手にいきむことができるということだったが、それまで握っていた手すりからバーまでの数センチ、手を動かすことさえしんどい。手すりから手を離して、新しくバーを掴むなんてできないんじゃないかと思った。助産師さんと「手を持ち替えてください」「嫌です!」という無駄な問答をまた繰り返してしまったが、結局意を決してバーを握ることになった。

 

胎児が進んでいる感触も、コツを掴んだ感じもないまま、何度も何度も痛みの波がくるたび、そのときの全力でいきんだ。数分おきに何度もお産の進みを尋ねたが、毎回「赤ちゃんの頭が見えますよ」と言われた。頭以上のものは見えないようだった。なぜか酸素マスクをつけられた。苦しくないんだけどと思った。ピンとこないまま、とにかくまじめにいきんだ。

 

30分ほどそんな事態が続き、突如「次で出しますよ」と言われた。こんなに何も進んでいないのに何言ってるんだと内心思った。かぶっていたタオルについて「さすがにそろそろ取ったらどうか」というようなことを言われた。赤ちゃんを見たい気持ちよりも眩しさを避けたい気持ちの方が強かったので嫌だったが、はぎ取られた。「麻酔を打つのでちくっとします」とか「会陰切開をするので少し痛いです」とか言われて、そういう処置をされた。もともとあまり抵抗がなかったが、なんにも痛くなかった。いや、針を刺されたり何かで切られたりする痛みは当然あるが、そんなものはこのしっちゃかめっちゃかな状況下では、もはや意識すべき問題ではなかった、という表現がいちばんしっくりくる。

 

そして、次のいきみで本当に出産が終わった。赤ちゃんを産んだ、というより、助産師さんが手を突っ込んで引っ張り出してくれた、というような感じがしたが、実際にどうだったのかはわからない。産む瞬間は「ハッハッハッハッ」と呼吸するとよいと何かで読んだことを思い出したので、一応してみたが、もはや特に何の効果もなさそうだった。

 

助産師さんが赤ん坊の首根っこを持ち、私の視界に入れてくれた。泣かなかったらどうしようと心配していたが、赤ん坊は、血まみれの姿で、ものすごく元気に泣いていた。産声は、私には「れー、れー」と聞こえた。その光景はただただ嘘みたいで、これまで感じていた胎動と目の前の赤ちゃんが結びつかず、「本当に人間がおなかにいたんだな」とぼんやり思った。

 

結局、正午になる直前に出産が終わった。分娩時間は6時間という、初産にしてはものすごいスピード出産の安産だった。

出産について2(分娩室での時間)

1の続きです。

 

車いすで運ばれた先は分娩台のある部屋だった。前日、診察をしてくれた産科の先生が現れてなにか話しかけてくれたが、ひとことも聞き取れなかった。

 

先生はすぐに退場し、分娩台に乗せられ、助産師さんが何人か視界に飛び込んできた。「担当になった誰々です」と自己紹介されたので、人間としての最低限の礼儀をふりしぼって「よろしくお願いします」と答えた。服をはぎとられ、新たに出産用の、よく言えばバスローブみたいなものを着せられた。着せられるときに腰を上げるよう指示されたが、痛すぎてできないと思い、無理ですとお断りした。「着ないとどうしようもないからがんばって」と言われ、どこにどう力を入れたらいいかわからなくなりつつあったが、どうにか姿勢を変えた(最初の固辞の意味のなさ)。ちなみに、分娩台もこの出産用ガウンもピンク色だった。出産してすぐ撮る写真はこの服を着た状態で写るわけで、普段ピンクなんか着ないので、なんとなく嫌だなあと思った。

 

そのとき子宮口の開大は4センチ。起床からは3時間が経ち、9時をまわったところだった。「いきみたい感じはありますか」と聞かれ、「いきみたい感じ」が何なのかわからないが、そういうものはないように思った。しかし、それがあるといよいよ出産間近であると両親学級などで習ってきたので、こんなに痛くて苦しいのに、まだまだ産まれないんだなと悲しく思った。

 

いつのまにか胎児の心拍や陣痛の強さを計測する機械をおなかにつけられており、分娩台から見える場所にある画面に折れ線グラフのようなものが映し出される。それによれば陣痛は4分間隔。「2〜3分になると良いですね」と助産師さんに言われた。これ以上の痛みがこれ以上の頻度で来る。当事者としては良くないに決まっているけど、出産業界では「良い」のだ。いや、当たり前なんだけど。

 

助産師さんが、音楽と香りについて尋ねてくれた。分娩室には好きなCDとアロマオイルを持ち込むことができた。CDは、家を出る直前、DA PUMPのアルバム「BEAT BALL」と「THE NEXT EXIT」をひっつかんできた。アロマオイルはこの日の少し前に、無印良品レモングラスを調達していた。効果は知らないが、通っている美容室で使われていて、好きな香りだった。しかし、あの状況では音楽とか香りとかどうでもよかったし、むしろ邪魔だ、結構ですと思い、そう伝えた。でも「アロマはリラックスできますよ」ということだったので、アロマだけ焚いてもらうことになった。確かに、この最悪な状況下で、好きな香りが確かにあるということは、つらい時間をやり過ごす上でなんとなく励みになった。音楽にもそういう効果があったのかもしれないが、わからない。

 

それにしても、分娩台に乗せられたときの私の体勢が悪かったのだが、右腕の下に枕があって気持ち悪い。気持ち悪いのだが、切羽詰まりすぎていて、これこれこういう状況だからこう改善してもらえませんか、と誰かに頼むこともできない。ずっと同じ姿勢でいるから腰も痛くなってきた。これは陣痛と関係なく、誰もが経験するタイプの痛み。どちらも陣痛の前ではしょぼいことなのだが、私の体力や気力を地味に削いでいた。ただ、部屋の明かりが眩しいのは耐えられず、頭にタオルをかけてほしいと、助産師さんか夫に頼み、そうしてもらった。

 

基本いつも痛い、数分おきにめっちゃ痛いのが数十秒続く、の繰り返しの中で、「めっちゃ痛い」を少しでも楽にするために、以前マタニティ学級で習った呼吸を試すことにした。よく見る「ふー、ふー」というものだ。波が来たときにうまく呼吸ができたら確かに楽だ、そう思い心電図のようなモニター画面を見ると、実は陣痛がそこまで強くなかったりするので落ち込んだ。さらに、つらいと感じた痛みを越えたあとに、答え合わせみたいな気持ちで見た波形が微妙な形だったりもした。精神を安定させる目的で、あまり痛くないときにも「ふー、ふー」と大きく息をしてみたら、助産師さんに「ここで体力使わないでいいですよ」と止められてしまった。でも、「呼吸、うまいですね」と何人かから褒められた。素直にうれしく思う気持ちもあったが、冷静な自分がどこかに残っていて、「これ全員に言っているんだろうな」と思ってしまった。

出産について1(出産前夜〜入院)

先日はじめての出産を経験した。それについて書き残しておこうと思う。

 

出産予定日を10日後に控えた妊婦健診の日、産科医に「もう来週には産まれていると思います」と告げられた。胎児の位置が下がり、子宮の出口も開き気味だと。赤ちゃんの体重は推定2600g。私の体型からいって、小さいうちに産む方がいいだろうという判断のようで、内診の際にお産を進める効果があるという「卵膜剥離」という処置を受けた。ちょっと痛いし血も出ると思いますよー、と、助産師さんに言われた通り、痛かった。とても痛かった。「無」と思いながら処置の30秒ほどの時間を耐えた。なんでもないトーンで「痛いよー」と言われるのが不気味だった。

 

私は、せっかくの産休なのだから、できるだけ出産をひきのばしてのんびり過ごしたかった。だから「いい陣痛を呼んでさっさと産みましょう」ムードあふれる診察室の空気にひとりだけついていけなかった。

 

病院からの帰り道、「まじでもう産まれるかもしれないな」と直感し、妊娠初期の頃から行ってみたかったカフェに電車に乗って出かけた。卵膜剥離の影響かずっと腹痛があって、たまに歩くのがつらかった。カフェではスコーンを食べ、電車に乗って帰った。それが私が産前最後に乗った公共交通機関となった。

 

その夜は腹痛で何度も目覚め、汗をたくさんかいた。痛みは一種類ではなく、ズキズキ、キリキリ、ジンジンといった表現が合いそうなタイプのものがいくつも押し寄せてくる感じだった。

 

浅い眠りを繰り返し、普段通り6時に起床した。汗を流すためにシャワーを浴びると、唐突に強い寒気と吐き気が襲ってきた。同時に、意識が明瞭になったからか、腹痛がはっきりしてきた。すぐさま布団に戻ったが、うめき声をあげないと耐えられない痛みが訪れるようになった。

 

「これが陣痛だ」とはっきりわかったわけではないが、「これだけ痛くて陣痛じゃないはずないだろう」と感じる痛みだった。大きな痛みが来るのは6〜7分おき。うめくほどつらいのは数十秒ほどだが、前日から続く腹痛は痛みのベース音として鳴り続けていた。

 

痛みが10分おきになったら連絡するように言われていた病院に電話すると、すごくゆったりとした、修道女みたいな口調の女性が出て、「あら、まだつらくなさそうね、1時間後にまた電話してね、5分間隔になった場合も連絡していいわよ」というようなことを言われた。なるべく慣れ親しんだ自宅にいたほうがいいのよ、との配慮だったようだが、自宅で強まり続ける痛みを放置(じゃないが)するより、病院で何らかの対処をしてもらったほうがいいと思っていたので、来院を許してもらえず落胆した。しかし、これがもし陣痛でないなら、痛いのを押して病院なんかに行かずに家に篭もって治るのを待ちたいもんだとも思った。このころから部屋の照明が眩しくてたまらず、タオルケットをかぶって痛みに耐えた。

 

54分後。あまりの痛さに1時間待つことができず、ふたたび病院に電話した。今度は苦しそうな声で。前回はギリギリ残っていた社会性を発揮してしっかりした口調で話したから、まだ来ちゃだめだと言われた。仮病を使うようでバカバカしかったが、電話の向こうのシスター的な人に許してもらえないと、病院に行けない。途切れ途切れに現状を伝えると、「さっきより苦しそうね、では来てください」とあっさり許可を得ることになった。

 

しかし、前もって登録しておいた「陣痛タクシー」というサービス経由で配車を依頼するも、電話がつながらない。結局、夫が普通のタクシーを呼んでくれたのだが、それでもしばらくタクシーがつかまらなかった。携帯電話を2つ使い、いくつかの会社に同時に連絡をする。スピーカーから聞こえる呼び出し音が延々続く。当然、その間にも痛みは増す。先行きが見えなかったこの時間は、出産全体を通してもっとも地獄に近いものだった。

 

おそらく20分ほど待って、やっと捕まったタクシーがマンションの前に到着した。パジャマから外着に着替え、玄関にある適当なサンダルに足を突っ込み(靴下を履いたり靴を選んだりする余裕はまったくなかった。しかし入院中ずっとこのサンダルで過ごすことになったので、本当はちゃんと選んで靴を履けばよかった)、エレベーターに乗り込む。ほとんど歩けないような痛みの中で歩く。マンションから出るところで強い痛みに襲われ、その場で壁に手をあててうずくまる。痛みが去り、一歩一歩よろよろと歩く。そうしてやっと乗車した。タクシーは最近よくある天井が高いタイプのもので、これは乗車中に痛みの波が来たときにいろいろな体勢を取れるから便利だった。私は天井から下がっていた吊革みたいなものを引っ張って波が過ぎるのを待った。

 

病院で降ろされ、受付のイスまで数十歩ほど進み、座り込んだらもう歩けなくなった。夫が誰かを呼んでくれたようで、車いすに乗せられてどこかへ運ばれていくことになったが、うつむいて頭を上げる気力も失っていた私に周りを見ることはできなかった。狭い自分の視界が、臨場感が強いタイプの映画みたいに移り変わるところを、見るというか、目に入れることしかできなかった。

妊娠のいろいろ

出産を目前にした現状について書き残しておこうと思う。

 

しかし、ずっとやろうとしてきたものの、妊娠を主題になにか書くのは難しい。それは慣れとかマンネリの作用によるものが大きいように思う。何ヶ月か妊婦として生活していると、もはや「妊娠」と「自分」を切り離して考えることができなくなってくる。子供との一体感がどうこうという話ではなく、単純に、自分の体の状態としての妊娠に慣れてしまった。例えば、顔の目立つ場所にホクロができて、はじめは気になっていたけれど、いつのまにか鏡を見ても何も思わなくなってしまう。そういうタイプの「慣れ」だ。で、今さらホクロについて書くことないよなぁみたいな。


また一方で、体調や体型、望ましいとされる生活スタイルも妊娠時期により日々刻々と変わる。有名な例では「つわり」があるが、これも妊娠初期を過ぎれば収まる人が大多数で、その後は逆に食欲が亢進して体重が増えすぎないように注意しなければならなくなるし、かと思えば子宮の拡張にともなって胃が圧迫されて量を食べられなくなるケースもある。さらに臨月には誕生に備えた胎児が骨盤の近くまで徐々に降りてくるため、胃腸がフリーになり食欲が出てきて太ってしまうことだってある。とにかく、短い期間での変化が多すぎて、そのときはその自分を生きているものの、過ぎ去ってしまうと、妊娠そのものを総括してなにか「これ」というようなことを言えなくなる(「切迫早産で2ヶ月入院」のような、明らかに重大なできことがあった人は別だと思う。でも私は幸い経過も体調もとてもよかった)。


そういう理由から妊娠についてまとめることができないでいたが、いよいよ出産予定日まで10日あまりとなった今、何も残さないでいるのも惜しく思えてきたので、妊娠中に思ったことなどを、どうしても散漫になってしまうが、書いておくことにした。


・無痛分娩について

周りでは、無痛分娩を選ぶ人の方が多い。私も妊娠をリアルに考えるまではそうしたいと思っていたが、結局、自然分娩(この用語が無痛分娩に対応するわけではないと思うが、麻酔を使わない分娩)で産むことにした。


近所のきれいな総合病院が無痛に対応していないから、というのが最大の理由。そしていざ妊娠すると、「せっかくなら陣痛を体験してみたい」と思うようになった。「麻酔でなくせる痛みなのになんでわざわざ」と思う人がいるのもよくわかる。でも、それって「ケーブルカーがあるのになんでわざわざ足で高尾山に登りたいの」と聞かれるのと私にとっては同じようなもので、まあ、好奇心なんかからわざわざつらいことをやってみたい気持ちって誰にでもあって、私はそれが出産に向いたのだと思う。


あとは、死に対する恐怖がものすごく強くてたまに眠れなくなったりする(「タナトフォビア」で検索してください)ので、一度めちゃくちゃ痛い思いをすればちょっとは死への気持ちが整理されるんじゃないかとも期待している。これは本当に誰もわかってくれないけど私にとってはとても重大なことだ。


・胎動について

「ポーン」「わぁ、蹴った!」みたいなものを想像していた。最初はちょっとそれに近くて、ふんぞり返ったり仰向けになったりしているとたまに下腹部にぽこんという感触があり、「ぎゅるる」みたいな胃腸の音も鳴らないのできっと胎児だろうと思う、というのが胎動とのファーストミート。その後しばらくは、そういうかわいらしい動きを時折感じるので、ポケモンとかペットを連れて行動しているみたいで楽しかった。


妊娠後期からはぜんぜん違った。巨大化した子供が狭い子宮の中で動くので、腹部に腹筋ローラーを詰められて、そこそこの強さでゴリゴリ動かされているような感覚になった。膀胱に当たれば尿意が芽生え、みぞおちに入れば痛くて苦しい。まあ、胎動がわかるようになるまでは、胎児の生死がまったくわからない状態で生活しなければいけないので、その頃の不安感を思えばありがたいことなのだが。でも今の痛みは今の痛みなんだよな。


ちなみに、狭くて暗い場所に10ヶ月も閉じこめられ、しかも自分の体がどんどん大きくなっていくという胎児の境遇を思うと発狂しそうになる。自分にもそういう時期があったのか、というか、もっと言うと目鼻とか手足がなかった時期があったのかと思うとなんとなく気持ち悪くて怖い。


・「妊娠業界」について

就職したあとなら「直属の上司」とか「華金」、結婚後も「旦那」というような言葉遣いができない。そういえば「都の西北」も「紺碧の空」も歌えない。あるコミュニティの一員になってから、そのメンバーぶるのが恥ずかしいのだ。業界人っぽい振る舞いができない。新しい友達にタメ口をきくタイミングも逃しがちだ。


妊婦の一員になってからもそういう感じで、妊娠関係の用語を使うのができなかった。人に説明するときはまず「いわゆる」とつけてしまう。「いわゆるつわりは軽かったんです」、「いわゆる安定期に入りました」みたいな。そういう理由もあって、マタニティマークも結局、使うことがなかった(最大の理由は、日常生活の中でマークの必要性を感じなかったからだけど)。自意識過剰な人にありがちなんじゃないかな。

 

ちなみに、私はあんまり妊娠とか子供についてエモい状態になることもなかった。淡々と過ごしている。


・体調について(妊娠初期のつわり)

妊娠期間を通じて一度も嘔吐することはなかった。もともと体質なのか我慢がうまいのか私は全然吐くことがなくて、大人になってから吐いたのは2回くらいだと思う。だからなのかわからないが、つわりがすごくつらいようなことはなかった。


それでは、つわりがまったくなかったかというとそういうこともなく、一時期は生々しいもの全般が嫌になった。例えば「炙りサーモン」という文字を見ただけで脂を想像して気持ち悪くなったし、ほかほかのごはんなんか食べられないので、カロリーメイトやフルグラ、トーストもしていない食パンみたいなエサっぽいものを好んで摂った。無理だったのは食べ物だけではなく、体温のある生き物との触れ合いもそうで、人と話したくなくなった。


そして嗅覚が鋭くなった。町を歩けば、軒先に干された洗濯物の洗剤や、開店前の飲食店のメニューを感じ取った。「恋をすると世界がカラフルに見える」的なテンションで世界中のにおいが鼻に飛び込んでくるので犬になった気分だった。あるときマスクをつけて明治通り沿いを歩いていて、フライドポテトのにおいがするなと思ったら、4車線の車道を挟んだ向こう側にマクドナルドの店舗があったこともあった。それが不愉快だったかというと、まあそうなんだけど、においと鼻との距離感がおかしくて、「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」みたいな表現がしっくりきた。


生身のものを嫌い、いろいろなものを感じ取ってしまうために常時マスクをつけていたこの時期の私は、中二病患者のようだった。狂ってる?それ誉め言葉ね。


・体調について(痛み)

対外的には妊娠期間のことは「nヶ月」と数えることが多いが、妊娠業界では「n週」と言うことが多い。月では単位が大きすぎることになってしまうほど細かい変化が日々あるからだと思う。最後の月経の初日が妊娠ゼロ週ゼロ日(この「ゼロ」がなんなのか私には理解できない……。0〜3週が1ヶ月、4〜7週が2ヶ月、となる)。40週0日が出産予定日。ちなみに日本では、22週以降に生まれた赤ちゃんは蘇生できる可能性があるとされる。


さて、「臨月」とは36週以降のことを指すのだが、妊娠業界的には37週が大きな節目で、これ以降の出産であれば胎児が外界で問題なく生きることができ、以前に生まれた子は早産児となってしまう(胎児の成長とはそれほど一様であるようだ)。で、それまでは「早産にならないように、おなかが張ったら安静にしましょう」という指導を受け、私も腹痛があればびびって過ごしていたのに、37週を境に「もういつ生まれてもいいからどんどんおなかを張らせていいですよ(おなかが張るのが周期的にあれば陣痛、出産につながるので)」と言われるようになった。


ちょっとそのパラダイムシフトについていけない自分がいる。小さなところでは、妊娠中のある日を境に突然「どんどん生まれるようにしよう」となったこと。大きなところでは、これまで避けるべきとされてきた痛みへのアプローチ。痛みがあるのが望ましい、痛みが出たらそれを放置どころか増長させないといけない状況なんて初めてなったので、かなり戸惑う(痛いのが嫌というわけでもなく、出産自体はすごく楽しみだけど)。


・今できなくてやりたいこと

全力疾走。こないだスズメバチに追い回されて逃げる夢を見たが、そんな不愉快な理由でも、久しぶりに走れて気持ちよかった。


サイクリング。クロスバイクを持っており、日常的に自転車で移動していたので、それができないのがつらい。翼をもがれた鳥のようだ。


エストがある服を着る。もうユニクロのワンピース2種類(2色ずつ)を着回す生活にはうんざりだ。


なにも気にせず薬を飲んで湿布を貼る。


食べられるものにも少しばかり制約がある(お酒、海外産のチーズや生ハムなどはNG)のだが、別にそこでは困らなかった。ノンアルコールビールはアサヒのが一番好きだった。


・みんなそれぞれ事情があるんだろうな

産後いちばん忘れそうなので書いておこうと思う。妊娠してから、「みんなそれぞれいろんな事情があって、そういう中で社会生活を営んでいるんだろうな」と強く思うようになった。私自身は体調も経過もよく特別な配慮はいらない妊婦だったが、そうでない人はたくさんいる(例えば流産率は15%もある、10人に1人以上だ。でもそういう話を聞くことは少ない)。それは妊娠だけじゃなくて、家族のケアが必要だったり、病気を抱えていたり、見えないところでみんないろいろあるのだろう。今の私は優先席では譲られる側で、ありがたく座るし、人から助けてもらうポジションにいるけれど、これからは少しずつ周りを助けられるようになっていきたいなと思う(道徳の授業の感想文か)。でもほんとにそう思う。

7/23〜31の弁当とジオウ劇場版

なんか上げ忘れてた。

f:id:naoko1989:20190731204610j:image
f:id:naoko1989:20190731204633j:image
f:id:naoko1989:20190731204644j:image
f:id:naoko1989:20190731204802j:image
f:id:naoko1989:20190731204636j:image
f:id:naoko1989:20190731204822j:image

 

仮面ライダージオウの劇場版を見に行ったので、ネタバレしない程度に感想を書きます。総じて笑いが止まりませんでした。

 

・エキストラの皆さんが非常に良い味を出していた

・ISSAの几帳面な性格がキャラクターの設定に生かされていてよかった

・ISSAの出番くそ多かった

・平成

YORIU-YEAHはまだマシということだったのか……?

KENZOはセリフ抜きかと思ったら……。

・前半必要だったか?

渡邊圭祐さんNYCの中山優馬に似てるな

・全体的に仮面ライダー好きなおじさん向けの映画っぽかった。でも何も知らない私が見ても笑えて楽しかったし変身シーンはかっこよかった