日記

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育休を「育業」と呼びたくない

初めて見たときには正確に意味を理解できなかったのだが、「育業」という言葉がある。「育児休業」の略語…なのかはわからないが、育児をするために仕事から離れる期間、のことを、「育休」ではなく「育業」と呼ぼうとする動きがあるようだ。

 

つねに現実と理想との間にはギャップがあるものだが、まず言葉遣いを変えることでそのギャップを埋めに行こうとする、そういう行為が私はあまり好きではない。

 

例、感染症が爆発的に流行する状況下でもリモートワークができない、現場作業を担う労働者を、「ブルーカラー」じゃなくて「エッセンシャルワーカー」と呼んでみる、とか。いまの技術では明らかに本革のカバンや靴の方がかっこいいわけだが、合皮を「フェイクレザー」じゃなくて「ヴィーガンレザー」と呼ぶとか。形から入るのも大事なのかもしれないけど、不都合な現実を覆い隠す結果となっていないかい、ということは考えたい。エッセンシャルワーカーは感染リスクが高い、その事実は、彼らをどんな風に呼び、いかに尊敬しようが変わらないわけで。

 

「育業」もその一環なんだと私は思った。

 

育児休業は休みじゃねぇ、立派な仕事なんだぞ、という思いから、「休」は退場。「業」というものものしい漢字がバトンタッチさせられたのだろう。

 

でもそれって、「休」より「業」がえらい、と思っているから、出てくる発想だと思う。「休」というか、「働いていない」という状態、のことか。「休」より「業」が上だから、「育休」じゃなくて「育業」にすれば、仕事をしていない人が肩身の狭さから解放されるのではないか、という発想。

 

しかし、問題は、「仕事をしていない人が肩身が狭い」という状況そのものなのではないか、と私は思っている。とにかく(これって実は都市部のものすごく限られた地域の、限られた種類の人のあいだだけの話なんじゃないかと最近少し疑っているけれど)、仕事、他の人間活動よりも不当に地位が高すぎるのではないだろうか。

 

言い換えが意識改革につながるのか。そうではないと思う。「仕事から離れている人がえらくないっぽい状態になる」という真の問題に触れず、ただただ「休」より「業」がえらいという世界観の土俵に、「休」の人が乗っちゃってることにならないだろうか。本来は、働いていない人が働いている人と同等に、ありのままに縮こまらないでいられる状態が正しいんだと思っている。

 

だから、「育休」という言葉を、誰でも普通に言える状態があるべき姿なんだろう。そんなに仕事、大事かなあ。