日記

低クオリティの弁当、本の感想、ときどきDA PUMPについて

違和感があること

ご無沙汰しています。元気ですか? 私は、先月コロナにかかり、元気ではありません(いまだに微熱がよく出る)。

 

本題、「仕事と家庭(とりわけ育児)の両立」に関して、特にインターネットなんかでよく見られる論調について、個人的には違和感をおぼえることが多い。あわせて2つ挙げようと思うが、まとめると、家庭に関するものごとについて「プロにアウトソースすること」を賛美する向きが強いことが気になる。どうしてそれが気になるかというと、仕事がだいぶ偏重されているな、と思うから。そして何より、圧倒的で疑いようのない「キャリアを積む=正」という価値観を前にして、当事者の気持ちが捨象されているように思うから。

 

今日はひとつめ、「子どもを預けて働くのはかわいそうじゃない」という発信、について書こうと思う。これはちょうどあるコラム記事をネットで読んで強く感じたことであるが、常日頃から考えていることでもある。


「育休が終わる間際、まだ歩くことも話すこともできない0歳の息子を抱いて、何度も泣いた。こんなにかわいい息子を預けなければいけないのか、と。子どもを産む前は、こんなふうに寂しい気持ちになるなんて思っていなかった。でも、預けて働き始めると見える景色が変わってきた。慣らし保育の初日、園のスタッフさんたちが『わあ、小さな赤ちゃん!』と集まってきた。ここには、家族の他にも、息子を愛し、見守ってくれる人たちがいるのだ。それまでワンオペ育児をしてきた私は肩の荷が下りたような気持ちだった。そして、最初は泣き通しだった息子は、数日すれば笑顔で保育士さんに抱かれ、私に手を振るようになった。そして、保育士さんたちは育児のプロだ。日々の連絡帳には、絵の具を使った制作や、季節の野菜の皮むきなど、家庭では到底、面倒でできないような活動が記されている。彼はここで新たなことを吸収し、成長していくのだ。私も、仕事に身が入る。母親だって、キャリアを積みたい! 子どもはいずれ私たちのもとから巣立っていく。息子には、楽しんで働く母の背中を見て育ってもらいたいと思うのだ。」

 

これは完全なる創作だが、このような発信が苦手だ。

 

あらゆる家庭にあらゆる事情とあらゆる解があると考えている。そして現代日本では、これまでより多くの家庭において、子どもを保育園に預けて共働きをする、という解が選ばれている。私も0歳児クラスの頃から子どもを預けている。そしてそれを「子どもがかわいそう」と言う人はいまだに多いし、それを気に病む母親もたくさんいる。上のような発信はきっと、そんなお母さんに届けたい気持ちもあって、書かれているのだろうと思う。

 

それでも言いたい。やっぱりちょっとこういうの苦手ですと。

 

だからといって、「子どもを預けて働くのはかわいそう」と言いたいわけじゃないんです。

繰り返しになるが自分自身、子どもを預けて働く選択をしている。実際に預けてみて、保育園はものすごいすばらしくて感謝しかない。そして、働く母親が、専業主婦の母親と同じくらい、子どもを大切に思っているのは疑いようのない事実だと思う。

 

一方で、子どもは本当に親が大好きである。そして保育園に通う子どもは、親の労働時間より長い時間(通勤時間があるから)、その大好きな親と離れていることも事実。保育園は家庭ではできない経験をたくさんさせてもらえる素敵な場所であることも事実。でも平日の日中はほとんど家族と離れ離れで過ごすことも事実。そして子ども自身がその環境を選んだわけではないことも事実。

 

つまり上のような言説って、子どもの気持ちについて、考慮の対象外としているんだよなあ、と言いたい。

 

いろいろな事実がある。それに対していろいろな解釈がある。私は事実の過大評価や過小評価をしたくないと思っている。そして、常に、それらの事実について子どもがどう思っているか、気にかけたいと考えている。別に子どもはなんにも考えていないかもしれないし、なにか問題があったとしても、具体的なアクションは取れないかもしれないけれど。


「子どもがかわいそう」「かわいそうじゃない」、そういうことは、周りの人が決められることじゃない。でも、親が決めていいことでもない。「3歳までは母親がみるほうがいい」「親が好きな仕事で自己実現して輝いているほうが子どもにとってもいい」、そういったテーゼは、子どもの目線から評価されて、初めて意味をなすものだと思うのだ。それを忘れてはいけないと本当に思う。

 

全寮制の中学校で働いている友人と、お互いに第一子を妊娠しているさなかに会ったことがある。彼女がそのときに言っていたことを何度も思い出す。「本当に、生徒たちは、親を求めている」。細かいニュアンスは忘れてしまったが、「そのときに仕事を優先させる親がいる。子どもはこんなに親を求めるのに。そんなにキャリアが大事なのか、と思う」というような言葉が続いた。

 

「ママの笑顔が一番」。子育てメディアでよく謳われる文句。もとは、自身を犠牲にしてしまう人に向けたものなのだろう。今はちょっとその言葉が独り歩きしているように感じる。ママをはじめとする大人の気持ちが優先されすぎていないだろうか。ママが笑顔であるほうが、子どもも笑顔で過ごせる確率が高いのは真実だと思う。しかし「ママは笑顔でも子どもは笑顔じゃない」ことだってあるし、「ママが笑顔じゃなくても子どもが笑顔」ということもある。


親にも子どもにもいろんな選択肢がある世の中で、どんなことを選んでも、きっと満点をとることはもうできない。その中から、家族全員にとって最適な解を模索して、それを正解に近づける努力をするしか、やれることはないと思う。

 

ちなみに、「長い目で見る」ということも、それ一辺倒になってはいけないと考えている。生涯収入とか、教育費とか、「大きくなった我が子も仕事を楽しんでいる」とかいろいろと。人生の中には楽しい瞬間もつらい瞬間もあって当然で、例えば終わりがくるときが総決算のタイミング、というものではあってはいけないと思うので(これは先日、私を含めた多くの人を、くだらない芸でたくさんたくさん楽しませてくれた著名人の訃報を受けて激しくショックを受けながら考えた。小林麻央さんもそんなことを言っていた→https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-38073955)。そしてつらいことも楽しいことも、それを強く感じている時間があるということは受け止めたいので。

 

しかし「子どもの気持ち」という、あるのかないのか、瞬間的なのか永続的なのかわからないものを気にし続けて、私には考えの芯というものはないのか、と自己嫌悪になることもある。ぶれずに「働くお母さんはかっこいい、きっと子どもも幸せ」と、思って進んでいる人は、もちろん知り合いにもいて、やっぱりいきいきしていてかっこいい(その人だって陰ではいろいろ葛藤しているかもしれないけど)。でも、私は、割り切りすぎない、というふうに割り切った、とも考えられるわけで、今はそういうスタンスでいきたいと思うのだ。

アールグレイの包容力について

小さい子どものいる生活について「温かいコーヒーが飲めない」と形容する人がいる。何らかの対応に追われているうちに、淹れたコーヒーは飲む前に冷める。コーヒーになる前に湯沸かし器の中で熱を失い、それを何度もくりかえして、カルキが抜けた水として一日を終えるお湯も存在することだろう。事故を防ぐために温かい飲み物を飲むこと自体止める親もいる。

 

私はそれでも熱い飲み物にチャレンジすることをやめない。コーヒーは時間がかかるから、お茶。ティーバッグ愛用。引き上げるべき時間に対応できるとは限らないからヒモやちいさな紙ははがさずそのまま。マグカップ一杯分を座って最後まで飲めることはほとんどないけれど、何口か、立ってでも、熱いのが飲めたらまあ欲求は満たされたな、まずまずだな、と思う。

 

さて前置きが長くなりましたが、最近マグカップをレンジ対応のもの(フランフランで500円くらいで売られていた「LOVE」とか書いてあるやつ)に変えました。そう書くとこれまで作家の器とか使っていたのかなみたいな感じがしますが、保冷・保温機能がある金属製のを愛用していたところ、最近の寒さが保温機能を凌駕するようになってきたから温め直しが手軽にできるといいなと思って食器棚の奥にあったのを引っ張り出した運び。

 

そのマグカップ、そこらへんで売ってるマグカップよろしく内側がまっしろなんですね。マリメッコのマグカップもウエッジウッドのマグカップも内側まっしろなのあるけど。内側まっしろだと、淹れたお茶の色の時間による変化がすごくよくわかるんですね。

 

淹れて数時間経った緑茶の色がどれだけ美しくないか。

 

食べ物の見てくれと賞味期限へのこだわりはほとんどない(一方で添加物などは非常に気にする)人間だと自身を認識してきたつもりだったが、放置した緑茶はむりだな、と思った。別に金属のコップを使っていたときは何も思わなかったが、酸化かなにかなのでしょうか、味もまずく感じるようになってしまった。

 

一方で、ただ色が濃くなるだけの紅茶がどれだけ良心的か。味もそんなに変わらないような気がする。特にアールグレイ。柑橘系のフレーバーティーだとこちらも認識しているからなのか、雑に扱ってもそれなりに期待通りの姿と味でいてくれるのである。

 

どちらかといえば緑茶派でしたが、そういった事情から紅茶を志向するようになった昨今です(さめたコーヒーはとてもまずく、悲しい存在であることは、いうまでもない。大概、数センチだけマグカップに残っている)。

 

というびっくりするくらいどうでもいい話でした。今度は胃カメラ(鼻から)のことを書こうと思います。

運動会の歌

通っていた小学校(練馬の区立小)の運動会の冒頭で唱和する歌が大好きだった。ふと歌詞で検索をかけてもなにもヒットしない。もしかしてオリジナルソングだったのか?ここに書いてみますのでご存知の方がいたら教えてください。

 

(フレ!フレ!フレ!)

青空が呼ぶ

力あふれる僕らに

飛べよ元気よく走れよと

応援歌 声も高く

歌おう朝日に響かせて

フレ!フレ!

僕らの運動会

 

2番もあるけど一部しか思い出せない。

「応援歌」は「万国旗」だった。

 

ちなみに今日のランチは練馬区の学校給食でおなじみの「練馬スパゲティ」でした。

大根おろし・ツナ缶・みりん・しょうゆ・バターをチンしたものをスパゲティにかけ、きざみのりをふっていただきます)

日記(歯の神経治療中)

クオリティより継続することを優先する。

 

自らの不徳の致すところから歯の神経治療をすることになった。私なりに歯科医の説明と治療されている口内の感覚とを融合させて理解している手順としては、まず歯を削って病に冒されてしまった神経を露出させる。細い何かで神経をほじくる。洗浄したり殺菌したりする。それが終わったら銀歯なりジルコニアなりで蓋をする。

 

治療は数回にわけておこなわれ、私の右上奥歯は現在、神経をほじくり出されて仮のふたをくっつけられているのだと思われる。

 

どういう意図でそうされているのかはわからないが、その未完成の歯がめちゃくちゃとがっている。尾崎豊くらいとがっているのではないか。今ふうにいえば国母選手か。いやNAMIMONOGATARIか。タウンアンドカントリーのキムタクか。それは、アガってる、だった気がする。このあと本チャンのふたをつけるから一時的なものであるとはいえ、サメみたいな歯が1本だけ口の中に生えている。しょっちゅう頬を噛んでいる。痛い。

 

その一方で今日はおいしいパン屋でパンを買うことができてすごく幸せだった。

まじでただの日記

・テレビ番組で「同じ映像作品および書籍を5回以上鑑賞したことがある人は全体の何パーセントでしょう」というクイズをしていて、私は6割くらいかなと思ったが、正解は28%だった。

 

私が5回以上視聴したことがあるであろうコンテンツはけっこうある。

 

バック・トゥ・ザ・フューチャー

トレインスポッティング

となりのトトロ

美人画報ワンダー

走れメロス

街場の現代思想

 

映画は刺激がつよいのでできれば筋書きを全部知っているものを見たいんだよな。

 

・近くに好きなパン屋が2つあって、ひとつはものすごい近所で月〜水休み。もうひとつはちょっと遠くて火水休み。どちらにせよ平日半分くらいは食べられない。明日は近い方の店に行こうと思う。

 

・パン屋のパンが食べたい、でも食べられない、というときにパスコやヤマザキのパンにいろいろ細工をする。いいオリーブオイルをつけたり、ジャムととろけるチーズを載せてバルミューダでトーストしてみたり。まあおいしくなるんだけどパン屋のパンではない。こんなしょうもないことではなくSDGs的な観点からも代替品利用を勧められがちな昨今ですが、結局代替品では欲求をフルで満たすことはできない。満たさなくてもいい人間になれという話なのかもしれないが。

 

・いい調味料を使うと手間は変わらず料理の味が上がりひいてはQOL向上につながる話。そうなのだろうと思うのだがキッコーマンに対するロイヤリティが高すぎてキッコーマン以外の醤油は使いたくない感じになっている。通っていた私立中学の社外取締役的なポジションにキッコーマンの会長がおり、中2の遠足で行くのが千葉県野田市にあるキッコーマンの醤油工場だった。それが楽しくて、同じ班のメンバーでわざわざ集まって計3回も工場見学に行った。それでなんだかキッコーマンの身内のような気持ちになっている。私にとっての柏とは、野田市駅に行くための乗り換えで使う駅である(他の人にとっての柏がなんなのか知らないけど)。

 

・ワクチン2回打ち終えた。副反応はなぜか1回目の方がきつかった。とはいえ2回目もきつかったので休んでいたのだが、そのあいだずっと芦名勇舗さん関連の情報だけを摂取していた。それがよかったんですかね。

 

楽天ポイントほしさに(別にそんなに楽天使わないけど)長年使ってきたライフカードを解約して楽天カードに切り替えることにした。これまでありがとうございました。

2021/8/12の日記

ちょっとした時間を利用して作文の練習をしようと思い、また定期的に更新をする(何度目の決意だ)。

 

ブログの更新がとだえていた理由はだいたい100個くらいあって、忙しいとかなんとかいくらでも言い訳を述べられるのだが、まずは私が、私の周りにいる人について、インターネット上で言及することを避けているのが大きい。そういうポリシーでインターネットをしてきたが、このたびの出産やらステイホーム要請やらで家族と過ごす時間が長くなりすぎて、それ抜きに身辺雑記のようなものを書くのがすごく難しく、どうしても筆が止まってしまっていた。

そういうなかで無理やり自分のことだけひねりだしてみる。

 

オリンピックを全然見なかった。

 

もともとスポーツ観戦は時間をドブに捨てている感覚が強くあまり好きではないのだが、特に今回は思い入れのある選手や種目がなかった。

 

ゆいいつ開会式には思い入れのある小山田圭吾が関わるはずだったが過去のドン引きエピソードにより市民の強い怒りを買い降板という結果に。私も高校時代にフリッパーズギターを知りこれを最高に愛していたわけだが、この件を知ってから小山田個人のことは嫌いになり、「人格の小沢・才能の小山田」みたいな棲み分けを脳内でおこない、最終的に小沢健二ばかり聞く大学時代をすごした。その小沢健二も不倫報道が出ていたね……。

 

余談だが、先日撮りためた写真をテレビ画面で見るためスマートスピーカーに「スライドショー流して」と話しかけたところ、フリッパーズギターのマイナー曲である「スライド」とかいう曲を流してくれた。センスいいな。

 

開会式と閉会式はバッハのあいさつのところ以外は見た。カメラを止めるな!の前半部分のようだと思った。ようするにつまらんなと感じてしまったわけで、自分がこういったショーに求めているのは、サプライズや統一感、そして技術的なすごさであるということが確認できた。そういうものは全体主義的なもので、もはや今の世の中では望まれていないのかもしれないとか思いもしたが、とりあえずヤフーニュースのコメント欄では同じような意見の人が多くて安心した(ヤフコメを指針にするような人間になってはいけない)。

 

トップにビジョンがないからこういうことになってしまったという意見をどこかで見た。それは非常に納得できるもので、「多様性と調和」っぽい概念が脈絡なく織り込まれており(その脈絡のなさのピークは唐突にImagineが流れた瞬間に訪れた)、配慮っぽいことをしているというアリバイだけはできる見せ物であると思った。それに思想の一貫性がないとこうもひどいコンテンツになるのかと思った。

 

ここでいうトップとは日本の菅首相のことなのだろう。ちょうど安倍政権から菅政権に変わったころに私は転職活動をしていて、「安倍は良くも悪くも何らかのビジョンを持って政権運営をしていたが菅にはそれがない」という話をめちゃくちゃたくさん聞きながら、菅さんにめちゃくちゃ共感していたことを思い出した。私も特にビジョンとか意見とかを持っておらず、面接の受け答えに苦労したので。

 

でも日常生活では困らないし仕事も一生懸命やってるんだからそれで別に問題ないじゃんと開き直ってきたが、なんだか自分の人生がこの開会式みたいなものになったらすごくいやだと今回はじめて危機感を覚えた。しかしビジョンってどうやって持てばいいのかな。みんなに聞いてまわりたい。

 

おわり。

2021/3/4の日記

1歳の子どもを見ていると、たまに自分の子ども時代のことを思い出す。当たり前のことだが、子どもは世の中の仕組みをほとんど理解していない。物理的にも社会経済政治的にも全部。

 

私は4歳くらいだった頃から23歳で就職して実家を出るまで、その、「世の中の基本的な仕組みの中に自分が適切に理解/アクセスできていないものがある」という状態がとてもつらかった。電車の切符を買うとか生協のカタログを見て注文するものを決めるとか役所から届いた封筒を開けて正しいレスポンスをするとか。そういうことをひとつひとつわかっていって、あと金銭的にも誰からも頼らなくてよくなって、あ、自分ひとりでもイケる、という瞬間が訪れてから、ほんものの自分の人生が始まった感覚がある。別にこういうことをつらいと思わない人がいるのも知っている。少なくとも1歳くらいの赤子がいちいちそんなことでつらがっていたら心がもたないだろう。しかし子どもが、例えば音の鳴るおもちゃのボタンを上手に押せなくて好きな曲が流れず怒っているような場面に出くわすとなんだかすごくつらくなる。

 

 

 

オリンピックの組織委員会の長が代わった数日後の朝のニュース(テレ朝)。テロップが「聖子会長」だった。女性であることを強調したいがためのファーストネーム表記なのだと思うけれど違和感。

 

過去に中学生のテストを採点するアルバイトをしていたことがある。太宰治の随筆を題材とした文章題の答えで、作者を「治」と表記する子が結構いたのが印象的だった。漱石とか鴎外」下の名前で呼ぶのが通例なので、「昔の文学者」というくくりでそうしたい気持ちもわかるけれど違和感。そんでいろいろと考えて、SMAPは基本的にみんな苗字呼びも名前呼びでもイケるけど、中居くんだけ「正広」とは言われないよね。逆に嵐で日常的にファーストネームで呼ばれるのは翔くんしかいないよね。とか思った。(オチがない)

 

 

Nintendo Switchが家にあるのにリングフィットアドベンチャーしかソフトがない。この状態が半年くらい続いている。ゲームをする時間が捻出できないわけではないが、しかし限られた可処分時間をゲームに振り分けていいのか不安。現状、ゲームをしていないからといって時間を有効活用できているわけではないけど。だったら絶対に楽しいに決まっているゲームをしたほうがいいのでは。こういうことを考える時点でゲームというか気分転換全般に向いていない。

2021/2/11の日記

疲れている感じがあり、「きき湯」を初めて買ってみた。入浴剤、実家では習慣的に個包装の温泉を模したものを使っていたが、22歳で家を出てからすっかり遠ざかっていた。過剰な期待感とともに湯船に投入して色のついたお湯に身体を沈める。効いているのかわからない。数分の入浴ごときにいろいろ求めるのも酷かもしれないと思いなおした。

 

昼下がりに速報で何らかの数字を示される毎日。その数字は何週間か前の自分たちの行動が変数のひとつとなって算出されたもので、少なければ少ないほどよいことになっている。毎日、誰かから何らかの採点をされている気分。

 

子どもを乗せられる電動自転車を買った。昭和の男子大学生が長く伸ばした髪を就職で切るように、私も母親になり、クロスバイクをママチャリに乗り換えることになった。スポーツタイプの自転車に乗り始めた頃から、そう遠くない未来に、この自転車との別れがくることになる覚悟をしていた。結局10年くらいしてから予期していた通りの未来が訪れた。最近のママチャリはかっこよく見えるように工夫されているようだが、やっぱりださい。実用性というか快適性とか安全性をとったタイプの商品なんだから当たり前だ。漕ぐ姿勢なんてサーカスで三輪車に乗るクマだかサルみたいになる。

 

それでも子どもを後部座席に乗せてペダルを踏むとひたすらうれしい気分になる。妊娠が判明してから出産するまでは一切自転車に乗ることができず、産後も子どもを連れて自転車に乗ることができなかった。クロスバイクを手に入れて以来、定期券というものを買ったことがなかったくらい、深く生活と結びついていた自転車をふたたびヘビーユースできるのがこの上なくうれしい。そう思うとこの2年間ってほんと人権剥奪されてたな。ママチャリにはママチャリのいい点もあることがわかって、たとえばボトムスを気にせず乗れたり(クロスバイクの場合はぴったりしたズボン以外無理)、タイヤのパンクを恐れず段差を越えたりすることができる。繊細な扱いが必要ないのは地味にいい。

 

私は自転車に乗っていて身体のどこか(お尻とか)が痛くなったことがない。クロスバイクでこけたこともない。それで当然だと思っていたが、他の人はそうでもないみたいで、おそらく私は自転車に乗ることに向いているんだと思う。自転車に乗れば文字通りどこまででも行けて、その自由は本当にすごくうれしい。

 

ちなみに購入したのは電動アシスト付きの自転車。車体は35kg。持っているクロスバイクは10kg切るので本当に重い。子どもを乗せるとさらに10kg追加(ってか1歳児とクロスバイクの重さが同じなのもびびる)。自分でも自分が何と戦っているのかわからないが、平地では基本的にアシストは切って運転しています。

 

あと危険運転をする◯ーバー◯ー◯配達人は滅びてくれ。

2021/2/2の日記

たまに日記というか、雑記を書いていこうと思う。

 

お弁当は作ったり作らなかったりしていて、決まって、「鯖の味噌煮缶と玄米とそのとき余っている青菜」を一緒に炊いたもののおにぎりを作っています。別に食生活において何かハイコンシャスな場所を目指しているわけではない。健康診断では体重が軽すぎて「要観察」をもらった。

 

子どもが通っている保育園のおたよりを毎月楽しみにしている。2月号には節分について、「豆まきでは、自分の中にいる『泣き虫鬼』や『怒りん坊鬼』を追い出します」と書いてあった。豆まきは利己的な理由のみにて行うものだと思っていた自分を恥じた。

 

何年か前にブータンの若い国王が人格者なのだと日本で人気を集めていたことがあった(あと、アントニオ猪木に似ている)。あるとき来日して、どこかの小学校でした講演がとても印象的だった。いわく「心の中に龍を飼い、大きく育ててください」。人格陶冶の例え話としてすごくしっくりくるものがあった。たまに思い出すのだが、思い出すだけで何も育っていない私の龍。

 

何をやったら鬼を退治して龍を育てられるんだろうか。

 

ヤフトピに掲載されていた、お笑い芸人の山田花子のインタビューを読んだ。東京のテレビに出ることを主な活動としていたが、結婚して子どもができて、家族との時間をとりたいから地元の大阪に拠点を移して新喜劇の舞台に出る毎日です、という内容。うらやましい生き方だと思った。でもちょっと、私生活での幸せを手に入れたために仕事の成功的なステージから「降りた」女性の、「逆上から目線」みたいなものも感じてしまいました。「最近の東京の女芸人さんたち、大変ですよね、私にはもう無理ですふふふ」的な。本人はギャグでおっしゃっているのかもしれませんが、私がひねくれているからそう見えるのだろうか……。

 

 

この日記は低めのハードルでゆるく続けようと思います。

 

 

 

最近の弁当

8月、育休を終え仕事に復帰した。お弁当作りも復活。でも時間の余裕がなく、ほとんど毎日同じものを食べている。ゆで鶏と炊き込みごはん(玄米、雑穀、サバ缶かツナ缶)。週末なんかにまとめて作って冷凍していて、毎朝それらをチンしたりして弁当箱に詰めている。職場に持っていけばどんなものでもそれなりにおいしいのだ(昼休みは楽しみなので)。

 

今日はそのストックが切れていて、別のときに作っておいた塩漬けのゆで卵と安納芋を持って行った。それなりの満足感。